|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
三島駅は三島市の代表駅で、JRと伊豆箱根鉄道が使用している。画像は三島駅南口と駅前の景観である。南口の駅舎は富士山と三嶋大社をイメージしたデザインで、「中部の駅百選」にも選定されている。東海道新幹線口は北口で、こちらは、新しいデザインになっている。
<農兵節>
三島で思い出すのは「農兵節」である。
農兵節の起源は、幕末韮山江川代官が三島で農兵の調練を行った時、長崎留学帰った家臣の伝えた、西洋のメロディーを行進曲に採用し、それを聞いた三島宿の人々が、当時の田植え唄・馬子唄の詞をつけて流行したのが始まり、と伝えられている。明治・大正時代「ノーエ節」として様々な替え歌で歌われていたものを、昭和初期に尻取り唄の「農兵節」と「農兵踊り」を完成し、三島民謡として全国に宣伝したのが平井源太郎だった。
その宣伝方法は、東京・大阪などへおもむき、「農兵節」の幟(のぼり)を立て、農兵指揮官の装束である韮山笠・陣羽織を着用し、大・小刀を腰に差した源太郎が、近在の若者達と共に農兵踊りを披露して人目を引いた。
一方、昭和9年(1934)に赤坂小梅の唄でレコード化しヒットさせている。こうして「農兵節」はレコードやラジオで全国へ広まり、現在でも「三島」といえば「農兵節」といわれるほど有名になった。
また、源太郎は「農兵節」とともに、箱根坂地区の良質な大根もいっしょに宣伝し、「坂もの」として箱根西麓の根菜類が、関西へ大量に出荷されるきっかけをつくった。
平井源太郎は、三島の久保町(現、中央町)で酒屋を営んでいた「大宮源」(おおみげん)の長男として明治15年(1882)に生まれた。生家は大正時代に、三島の連隊へ沢庵漬けを納めるなど大きな商売をしていた。しかし、昭和初年不運が続いて店を閉じることになる。この後源太郎は「農兵節」の普及に努める一方で、街頭に立ち「商道改革と農村の共同化」を訴え、昭和12年(1937)には三島町議会議員に選出される。昭和15年(1940)、58歳で亡くなった。墓は川原ヶ谷願成寺にある。(説明文より) |
|