|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
JR西日本の駅で東海道本線(琵琶湖線)が通っている。駅前に彦根の由来を示した石碑があるので以下それを引用する。
『古事記の冒頭には、太陽を神とする天照大御神(伊勢神宮)が、国生みの神である伊邪那岐の命・伊邪那美の命(多賀大社)の御子として生まれたと記されており、また天照大御神の御子である天津日子根(アマツヒコネ)の命と活津日子根(イタツヒコネ)の命の兄弟神が、悠久の昔にこの彦根の地に鎮座して国造りをしたとするのが、この地方に伝承されている神話である。
奈良時代、日本最古の法典「大宝律令」を完成させた藤原不比等とその子藤原房前が、永年彦根の地を治めたことにより平城京にも劣らぬ地方都市がこの彦根の地に造営されていた。
平安時代中期、末法思想の広がりと共に、全国各地に観音信仰が生まれ、現在彦根城のある彦根山(彦根寺)には金の亀に乗った一寸八分(約6p)の観音様がおられたことから別名を金亀山とも呼び、後に築城された彦根城は金亀城とも呼ばれている。また、当時霊験あらたかな観音霊場として、彦根山参詣ブームを巻き起こし、京都方面からの参詣道は巡礼街道と呼ばれ、現在も通称として残り往時を偲ばせている。
江戸時代、藤原鎌足の子孫である井伊家が彦根に入り(入府)、初代彦根藩主となった井伊直政は、現在の静岡県引佐町伊井谷(合併して現浜松市)にて生を受け、15歳で徳川家康に見出されて以降、武田勝頼との戦いを初陣に、関ヶ原の戦いなどに数々の大功を立て、慶長6年(1601)18万石を賜って佐和山城主となるが、関ヶ原の戦いで島津軍から受けた鉄砲傷がもとで41歳の若さで亡くなった。
彦根城と城下町は、直継(途中分家)から2代藩主直孝にかけ20年の歳月を経て完成したが、井伊家中興の祖と言われる直孝の大阪冬の陣・夏の陣の大功により35万石となり、これより以降、近江の国の政治・経済・文化の中心地として永く栄えることとなった。また、東京世田谷の豪徳寺が井伊家の菩提寺となったのも直孝の時からである。
彦根の地は誰言うともなく「一に大老・二に佐和山殿」として、井伊直弼と石田三成を彦根が輩出した偉人として市民の敬慕となり象徴となっている。井伊家が彦根のまちを開き、平成13年(2001)が丁度400年目の年となり「彦根開府400年」記念事業の一つとして彦根市民有志の手により、本石碑が建立された。』
<井伊直政像>
永禄4年(1561)現在の静岡県井伊谷(現浜松市)に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ヶ原の戦いで功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、18万石の大名となった。
その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602)41歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ20年の歳月を費やし元和8年(1622)彦根城を完成させた。こうして、彦根35万石初代藩主井伊直政は、今日の彦根市発展の礎を築いた。(石碑より) |
|