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<旧萩駅舎>
旧萩駅舎は、大正14年(1925)4月に、美祢線延長の長門三隅・萩間開通にともない開業した。屋根や窓、壁に洋風のデザインや構造が施され、大正時代末頃の建築様式を今に伝える建物として、重要な資料である。駅舎内部は、2等(現在のグリーン席)待合室と、一般待合室とに分けられていたといわれる。(登録有形文化財)
<旧集札口>
旧集札口は、萩駅舎建設当時に設置され、使われていた。集札口とは、乗客から乗車券などを回収する場所のことです。
無人駅となった現在は、運賃箱により回収を行っているが、当時はこの場所で駅員が降車した乗客から乗車券などの回収を行っていた。
<通票閉そく器>
通票閉そく器は単線区間で列車の安全を確保するための保安機器です。列車を安全に運転するために次の駅までの線路を一本の列車に優先させる。これを閉そく区間といい、1閉そく区間に1列車しか運転できない。その安全を保障するのが通票(タブレット)です。
閉そく器の操作は両方の駅長が電話で打ち合わせをして行うが、通票は列車を出発させる方の駅の閉そく器から1個しか取り出すことができない。駅長は通票を運転士に渡して列車を発車させる。列車が次の駅に到着して、駅長が運転士から受け取った通票を閉そく器に納めなければ両方の駅の通票閉そく器は作動しない仕組みになっている。 |
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<長州ファイブ>
文久3年(1863)英国に密航留学した長州出身の五人の若者たちー伊藤博文(春輔)・井上馨(聞多)・山尾庸三・井上勝(野村弥吉)・遠藤謹助ー。近年は留学先の英国でも彼らの功績が評価され、「長州ファイブ」の呼び名で顕彰されている。
江戸時代初頭に日本人の海外渡航が禁じられて以来、国禁を破って密航したのはこの五人が最初である。
幕末期、日本は欧米列強の植民地化の危機にあった。長州藩重臣の周布政之助は、欧米列強と互角に渡り合うためには西洋文明・先進技術を身に付けた「人の器械」が必要だと考え、行く末を若い5人に託した。このことはただ長州藩の為でなく、結果的には日本の近代化に大きく貢献することになったのである。
伊藤博文 初代内閣総理大臣。 井上馨 初代外務大臣。
山尾庸三 工部卿(工業の父。 井上勝 鉄道庁長官(鉄道の父)。
遠藤謹助 造幣局長。
<井上 勝>鉄道庁長官(鉄道の父)
明治時代の鉄道官僚。井上与四郎の子として萩城下の土原に生まれた。一時は野村弥吉と称した。
箱館(函館)の英国領事館員に英語を学び、文久3年(1863)英国へ密航留学して鉱山・土木工学を研究。明治元年(1868)帰国し、明治新政府の鉄道頭とし日本最初の新橋・横浜間の鉄道開通に尽力した。その後、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任して全国の鉄道網を整備し、生涯を鉄道一筋に捧げた。また同29年に汽車製造合資会社を設立し、機関車の国産化にも努めた。(天保14年〜明治43年(1843〜1910)) |
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現在の萩駅は、旧萩駅舎の向かって左側隅にある。旧駅舎と比べると小さな造りになっているが、旧駅舎との一体感を保つように造られている。ホームに入るとちょうどタイミングよく列車が到着する。 |
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<蒸気機関車動輪(D51 730号)>
平成25年(2013)が、山陰本線全通(昭和8年(1933)2月24日)80年、また、萩駅開業(大正14年(1925)4月3日)88年の記念の年を迎えるにあたり、山陰本線を力強く列車を牽引した「蒸気機関車動輪(D51 730号)」がJR西日本広島支社から寄贈された。 |