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御殿飾りは、京の御所の紫宸殿を模した「御殿」の中に、内裏雛を入れた雛飾りです。登場は、江戸時代後期の天保年間(1830〜1844)頃です。
明治時代になると、さまざまなものが誕生した。豪華なものは、屋根が檜皮葺や板葺きの紫宸殿・清涼殿・宜陽殿が、細部は本物そっくりにつくられ、内裏雛・官女・五人囃子・随身・仕丁などが御殿内部や周囲に配置された。
御殿飾りは、明治・大正時代を通じて京阪神で人気があり、戦後には西日本一帯で流行したが、昭和30年代中頃に百貨店や人形店などが販売する一式揃えの段飾り雛の流行により衰退した。
<山内家の御殿飾り>
山内家の御殿飾り(上の画像)は、江戸時代の終わり頃に京都でつくられたものといわれ、箱書きには安政3年(1856)の銘がある。御殿・雛人形・雛道具が一揃いになった豪華な御殿飾りは、保存状態もよく、地方に伝わる御殿飾りとしては全国的にも珍しく貴重なもので、藤枝市の指定有形文化財となっている。
京都御所を模した紫宸殿。清涼殿・宜陽殿の3棟を渡り廊下でつないで一組としており、節のない桧材の白木造りです。雛人形は50対以上あったといわれているが、現在は内裏雛をはじめ45体の人形と牛車や籠、葛篭・貝合箱などの道具が残っている。御殿は屋根・柱などを組み立てる方式のものでなく、収納時にはそのまま大きな木箱に納めるつくりになっている。
御殿飾りは、柏屋の親戚の山内馨さんの祖母山内てるさん(安政2年生)が初節句に祝いとしていただいたもので、平成11年(1999)に資料館の開館にあわせて寄贈された。ただし残念なことに、内裏雛は製作先代が明治時代以降のものと推測されている。
<御殿飾りの建物>
御殿飾りの建物は、古代に造営された内裏の建物にならったもので、中央が紫宸殿、向かって右が宜陽殿、向かって左が清涼殿を模している。
紫宸殿は、主に儀式が執り行われる場所で、南側は広場となっていて左近の桜(向かって右)、右近の橘(向かって左)が植えられていた。
宜陽殿は、紫宸殿の東側に廊下でつながった建物で、天皇家歴代の宝物が納められていた。
清涼殿は、紫宸殿が儀式の場で公的な場所であるのに対し、天皇が衣食住の日常生活を送り、日々の政務をを執った建物です。
多くの御殿飾りでは、大きいものでも建物1棟の場合が多いが、この雛飾り一式の建物は独立した3棟の建物からなるたいへん立派のものである。 |
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上の御殿飾りは、山内家のものではなく別の物で、建物1棟の御殿飾りである。 |
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最下段(この上)の御殿飾りは、稲取温泉(静岡県賀茂郡東伊豆町)の「雛のつるし飾り」で飾られていた御殿飾り。
<雛祭りと祭日>
雛祭りは、平安時代に、3月の最初の巳(み)の日に行われていた(上巳(じょうし)の払い」の人形(ひとがた)による厄払いの行事から発生した「流し雛」と、貴族階級の子女の間で始まった「ひいな遊び」といわれる人形遊びと合わさって「雛祭り」の原型となったといわれている。これが江戸時代に庶民にも伝わり、女の子のお祝いの儀式として、雛祭りが3月3日に定着していったそうです。
雛祭りが人々に普及する要因の一つとして、江戸幕府が「五節句」の一つとして定めてことがある。「三月節句」や「上巳の節句」とも呼ばれ、邪気払いのために、人形(ひとがた)流しや神に供物を捧げて、節句料理を食べる習慣から、女の子の成長を祝う願う行事として定着していった。
旧暦の3月3日は、現在の4月にあたり、桃の花が咲くことや、桃は魔除けの効果を持つとされてきたことから「桃の節句」とも呼ばれている。
3月3日の雛祭りに対して、大阪の一部や徳島・伊勢地方で、旧暦9月9日(新暦の10月中旬)の重陽の節句におひな様を飾る風習もあった。また、8月朔日(8月1日)に飾る習慣も、西日本の広い地域で行われていた。重陽に飾る雛を菊雛という。 |