康生元年(1455)、太田持資(道灌)は、江戸城を構築中、武蔵品川の館より武蔵野に鷹狩りを催し、その帰途高井戸附近で薄暮となった。折しもこうこうたる仲秋の名月は宙天にかかり、月影はすすきの穂波にゆれて秋虫のすだく幽寂の風情は、道灌の詩情をさそい、家臣と共に歌の宴を張ったのである。ときに土着の名族某、手つきの団子を献上したところ、道灌は、名月に配する団子の風雅をよろこびて、その滋味を賞賛し、以来、折に触れてこれを所望したのである。
のちに、名族某は、道灌の徳をしのび、高井戸の地において道灌団子と称してその製法を家伝としたが、高井戸宿が甲州街道の始駅となるに及び、上水の傍に柳茶屋と号して某の後裔(こうえい)が道灌団子を商い、大いに繁盛した。元禄11年(1698)、内藤新宿が伝馬の宿駅となり、柳茶屋も宿の変遷とともに新宿追分に転移し、行き交う人々に親しまれ、誰言うとなく追分だんごと呼ばれるようになった。
享保の始め宿の衰微にともない、柳茶屋もいささか傾覆(けいふく)を余儀なくされたのであるが、後年再び新宿が馬次(うまつぎ)の宿となり、追分の地は青梅・甲州両街道の分岐点として車馬の往来も日々繁くなり、追分けだんごの名も人口に膾炙(かいしゃ)されるに至った。
追分だんご本舗は、以上の口碑にもとづき、伝承技術を継承し、これに近代感覚を加味し、東京名物として皆様にお贈り致している。(「追分だんごの栞」より引用)
1段目画像−−ごまだれ、 2段目画像 −−みたらし、 3段目画像 −−こしあん |