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西周は、明治文化の功労者の一人として我国哲学界の先駆者として知られている。20歳で藩校養老館の教授となったが、29歳、津和野藩を脱藩し徳川幕府に仕えた。幕命留学生としてライデン大学に留学する。帰国後、徳川慶喜の外交秘書などを歴任し、明治以降は啓蒙思想家として活躍し日本で最初に西洋哲学を紹介した。
とりわけ学術語の整作は最も有名である。コント及びミルの実証主義による封建的旧弊打破と宗教と政治の分離は最も主張したことである。実は森鴎外と親戚関係にあり、鴎外は上京後、西の家に寄寓していたこともあった。復元された茅葺きの旧宅は、鴎外の生家とは津和野川を隔てて建つ。森鴎外と共に、文化人切手の中に収められている。
学校で習う「化学」のことを、明治のはじめまで舎蜜(セイミ)といっていた。オランダ語の発音に漢字をあてはめたものである。これを「化学」という日本語にしたのが西周です。私たちがなにげなく使っている「哲学」や「心理学」なども西周の訳語です。(観光パンフより引用) |
<以前の投稿欄のコメント> |
昨日(2008.7.5)西 周の旧居を訪問し、勉強部屋であった土蔵の3畳を見て、感慨を新たにした。勿論、森鴎外の旧居も訪れたが、我国の文化の進歩に果した役割は、西のほうがはるかに大きいと思われる。
哲学、科学、化学、理性、悟性、芸術等現在万人が当然のように使っている語彙を創設できたのは、彼の漢学における深い素養と、25歳から始めた外国語とそれを通じての西洋哲学・科学・文化の理解吸収力の成果であると思われる。 現在人から見ると気の遠くなるよう業績であり、我国近代の偉人の一人であろう。藤田
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文政12年2月3日、石見国津和野藩医の子に生まれる。旧名周功。嘉永6年に江戸を出て蘭学を学ぶ。文久2年には幕府オランダ留学生としれ渡欧した。帰国後幕臣にとりたてられ、開成所教授となった。
維新に際し沼津(静岡県)に移り、明治元年沼津兵学校の頭取となり、その経営に力を注いだ、沼津では片端19番地(あまねガードを南に上がった辺り)に住んだ。
その後明治政府の官僚・学者として活躍し東京学士会員会長・貴族院議員などを歴任し、男爵に列せられた。西洋の哲学思想をわが国に導入した功績は大きい。明治30年(1897)1月31日没。60歳。このレルーフはオランダ留学時の写真をモデルに下山昇氏により制作された。(東海道本線・沼津駅前にて) |
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