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<森鴎外・生家>
医学博士、文学博士、鴎外の号をもって名高い。森林太郎は、6歳より藩校養老館に学び、11歳の時上京。明治14年20歳で東大医学部卒業後陸軍々医に任ぜられた。明治17年ドイツに留学すること5年、衛生学、文学、哲学、美学を研究して帰朝、後累進して軍医総監となった。後に帝国博物館長、帝国美術院長等となった。
著作は明治23年創作「舞姫」以来晩年まで文豪の名に背かぬ幾多の名作があり多方面にわたる著述論作はぼうだいなものである。旧址には往時のままの旧宅が保存せられ庭園には鴎外遺著「うた日記」中のぼたんを刻んだ詩碑が建立されている。(観光案内図より引用) なお、森鴎外旧宅は国指定文化財になっている。 |
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<森鴎外住宅・東京都文京区> |
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この建物は明治の文豪森鴎外と夏目漱石が時を隔てて借りた家であるが、当初は医学博士中島襄吉の新居として建てられたものである。
鴎外は明治23年(1890)から1年半ほどこの家に住み、「文づかひ」などの小説を書いた。約13年後、漱石は明治36年(1903)から約3年住み、「吾輩は猫である」を書いて文壇でその名を高めた。文中ではこの家の様子をよく描写している。
住宅としては玄関脇の張り出した和室(書斎)、台所から座敷への中廊下は住宅の近代化の先駆けとみることができる。
なお、漱石が住んでいた頃、書斎の東北隅に幅6尺・奥行3尺で西向きの押入があったことを示す痕跡が発見されたが、資料不足のあめ復元を行っていない。登録有形文化財。
旧所在地:東京都文京区駒込千駄木町
建設年 |
明治20年頃 |
解体年 |
昭和38年(1963) |
移築年 |
昭和39年(1964) |
建築面積 |
39.2坪 |
構造 |
木造平屋建 |
遺贈者 |
斎籐文根 |
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住宅内部の様子。博物館明治村(愛知県犬山市)にて撮影する。 |
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