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坪内逍遙は、安政6年(1859)5月22日、太田代官所手代坪内平右衛門の10人兄妹の末っ子として生まれた。同年には安政の大獄や横浜港開港などの出来事があった。少年時代は皇女和宮の降嫁、天狗党の浪士武田耕雲斎の通過など国内が揺れ動いた時代だった。
昭和10年(1935)、風邪から気管支カタルを併発した逍遙は再起不能を自覚し、後輩に『新修シェークスピヤ全集』最終回部分の修正整理を依頼した。同年2月28日、最愛の地、熱海で眠るようにこの世を去った。 |
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逍遙は生まれたとき「勇蔵」と名付けられたが、内気で弱気な性格だったので、自分とかけ離れた性格の「勇」の字を嫌い。「雄蔵」と改名している。
逍遙とは「荘子」の中の句からとり、「ぶらぶら歩く」という意味です。また、生まれた年が巳年であることから「小羊」と名乗り、羊の玩具を集める趣味をもっていた。逍遙の性格は、寛大で情が厚く、涙もろい一方、厳格で近寄りにくく、気難しいところがあった。 |
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幼少の頃は、紙に人物や動物を描き、それに色を塗るのが好きで、紙を多く使うため「巳年生まれの紙くい虫」と家族から呼ばれた。また、神社の境内にあったツバキの実で遊んでいた。
明治2年(1869)10歳の時、一家は名古屋郊外へ移住した。逍遙は大惣(大野屋大惣)という貸本屋へ通ったり、母や姉の影響で観劇をしたりして、明治という新時代に新しい文化の風を受けた。明治9年(1876)、愛知県の選抜生として上京し、東京開成学校(東京大学の前身)に入学した。
東京大学を卒業すると、東京専門学校(現早稲田大学)の講師となった。明治18年(1885)、近代小説の理論書である『小説神髄』やその実践書である『当世書生気質』を刊行した。その後、文芸協会への指導や、『新修シェークスピヤ』全集の刊行などの業績は日本文学界の先駆的、革新的な役割を果たしたといえる。 |