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寛弘7年(1010)、井伊氏初代の井伊共保(ともやす)が生まれたと伝わる井戸です。共保は、遠江国司として志津城を居城とした藤原共資(ともすけ)の養子となり、井伊谷(いいのや)に移り姓を「井伊」とした。江戸時代に建てられた笠塔姿形の石碑には、井戸の傍らに橘(たちばな)の木が生えていたことから、井伊氏は「橘」を家紋とし。「井」を旗幕の紋としたことが記されている。
石碑の造立をはじめ、井戸の整備は彦根藩主が繰り返し行っており、井伊氏にまつわる聖地として、歴代当主が篤く崇拝していたことが分かる。 |
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ここ遠州井伊谷は古代「井の国」と呼ばれていた。清らかな水が豊かに湧き出る土地だった。井伊谷川、神宮寺川が交差する両岸の段丘には、縄文・弥生・古墳時代より中世にいたる古代人の遺跡が数多く残されている。
古墳時代4世紀半ばには北岡大塚古墳(前方後円墳)が造られ、続いて馬場平古墳、谷津古墳が造られる。古代井の国には井の国の大王が住んでいたことを物語っている。
この井の国より井伊氏の元祖共保が誕生した。共保は7歳の時、遠江守として村櫛志津城に着任していた藤原共資の養子となる。後に古里井伊谷に戻り、城山の麓に居館を築き井伊氏を名乗る。
平安時代には「井の八郎」鎌倉時代・南北朝時代には「井伊介」の名が日本史上に登場する。このように井の国より発祥した井伊氏は、遠江の代表的な国人領主(在地領主)として、井伊谷に600年の歴史を刻んできた。
戦国時代、24代直政が徳川家康に仕え、徳川四天王の一人として大活躍し、彦根の地に出世する。 |
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