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ヤン・ヨーステンは和蘭人で、1600年豊後の海で難破した和蘭船に乗っていた。そのまま日本に住みつき、徳川家康の信任を得、外交や貿易について進言する役目についた。
その江戸屋敷は和田倉門外の堀端にあったので、後に彼の名にちなんで八代河岸と称せられ、更に八重洲になった。(ヤン・ヨーステン像は、オランダ人LPJブラート作) |
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<八重洲の由来となったオランダ人ヤン・ヨーステン>
ヤン・ヨーステン(オランダ人・日本名、耶楊子・やようす)は、ウイリアム・アダムス(日本名、三浦按針)等とともに慶長5年(1600)に豊後(現・大分県)に漂着したオランダ船リーフデ号(3段目左画像)の船員だった。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の通訳として重宝され、江戸城下の今の日比谷あたりに屋敷を与えられたので、このあたりの地名を八代洲(やよす)河岸といった。
「八代洲」は、のちに「八重洲」と書かれ、初めて町名になったのは明治5年(1872)のこと(現・丸の内1丁目付近)。その後東京駅が開業すると、八重洲町の大半は東京駅となるが、昭和29年(1954)には東京駅東側一帯が「中央区八重洲」となって今日に至っている。
日本人と結婚したヤン・ヨーステンは、幕府より朱印状を得て、東南アジアを中心に幅広く貿易を営んだ。
また、慶長14年(1609)長崎・平戸にオランダ商館が開設されると、日本とオランダとの貿易の発展に尽力した。のちに、帰国を思い立ったヤン・ヨーステンはバタビア(現・ジャカルタ)に渡り、帰国交渉をしたが不調に終わり、日本への帰帆途中、船が難破して亡くなった。 |
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