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勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれた。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年(1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2(1819)に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えた。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられる。海舟は7歳までの幼少期をこの地で過ごした。
その後は、旗本天野左京の自宅2階(現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年(1830)、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に転居してからのことだった。海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられている。
海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分からないが、天保14年(1843)21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年(1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授し始めた。
米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年(1853)6月3日のことだった。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、安政3年(1856)に講武所砲術師範役、同6年(1859)に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていった。
そして、安政7年(1860)正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功した。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになった。
慶応4年(1868)3月に行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となった。
海舟は新政府で高官に任ぜられるが、明治8年(1875)11月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力した。明治19年(1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていた。明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で静かに眠っている。
(勝海舟の写真は解説版より掲載している。3段目の景観は解説版の前にある両国公園) |
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