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この地は赤穂義士堀部安兵衛武庸の武勇助太刀によって、往昔より天下に知られた所である。
安兵衛の本姓は中山氏。越後新発田に生まれる。実父彌次右衛門は溝口信濃守の家来で、一族は家老上士の身分家柄であったが、故あって浪人した。父没後、19歳の時江戸に出て、小石川牛天神下の剣客堀内源左衛門に剣を学び、たちまち高弟随一に挙げられた。元天龍寺竹町に寓居し、師の代稽古を勤め各藩邸に出張教授をしていた。伊豫西條藩松平家家臣菅野六郎左衛門と親交し、叔父甥の義盟を結んだ。偶々菅野と同僚村上庄左衛門と不和決闘のことを生じ、安兵衛を訪ね訣別、後事を頼んだ。敵は武芸自慢の村上三兄弟である。安兵衛は義叔父に助勢のため、菅野若党、ぞうり取と同道して決闘の場に臨んだ。
元禄7年2月11日巳の上刻(午前11時半頃)村上庄左衛門一人馬場末に待ちかまえ、二兄弟は木影に身をひそめ、左右より菅野を襲い討たんと謀っていた。安兵衛は菅野を護衛して進み、躍り出た弟三郎右衛門と斬り結び、これを仆し、次いで馳せつけた敵中津川祐見をも斬る。菅野と村上は互いに傷つき闘っていた。菅野老人危うしと見た安兵衛は血刀をふるって、庄左衛門を斬り伏せた。家来とともに菅野を介抱して帰る途中、某屋敷の番小屋に入って休むうち、菅野は深創のため絶命した。
安兵衛の武勇の誉をきいた播州赤穂藩江戸留守居役堀部彌兵衛が安兵衛を招待対面して、その人物に惚れ込み、人を介して再三交渉の後、娘ほり(堀部家系譜)の婿養子とした。かくて安兵衛は浅野家馬廻役二百石勤仕となる。その後数年を経て、浅野内匠頭、吉良上野介殿中刃傷事件が起こり、内匠頭切腹、御家断絶。「君父の仇は倶に天を載かず」の武士道の忠義に凝る堀部父子は、大石内蔵助を盟主とする赤穂四十七義士とともに吉良邸に討ち入り、名高き元禄快挙を遂げた。元禄16年2月4日、幕命により身柄お預けの松平邸において、安兵衛は切腹する。行年34歳。法名を刃雲輝剣信士と謚られ、その墓は高輪泉岳寺に四十七義士ととみ在り、世々香煙絶えず。亦別に表忠墓碑は堀部家菩提寺の万年山青松寺(港区芝愛宕町)に在る。
明治43年、元禄以来この地の旧家行田久蔵氏が自費をもって安兵衛の義烈武功を記念する碑を建立す。碑文は信夫恕軒翁の粲撰になるが、文中実録資料と相違のところがある。依って有志相謀って、ここにその由来の一札を建て、誤伝巷説を正し、広く世人に伝えるものである。
中央義士会 素行会 新宿区史蹟保存会 水稲荷神社 |
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泉岳寺に眠る堀部安兵衛の墓。右端の墓がそれである。切腹のため戒名に”刃”の次が刻まれている。 |
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