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<滝沢馬琴・誕生地>
江戸時代後期の小説家。明和4年(1767)6月9日、旗本松平信成の用心を勤める下級武士の五男として、この地にあった松平家の廷内で生まれ、嘉永元年(1847)11月6日、82歳で病没した。名は興邦(おきくに)、曲亭馬琴、著作堂主人などと号した。 安永4年(1775)、9歳で父親と死別し、その後は、松平家の孫の遊び相手として一家を支えていたが、同9年(1780)、14歳の時に松平家を出た。
門前仲町に住み、文筆で身を立てようと、寛政2年(1790)山東京伝のもとに入門した。翌年正月に処女作として、京伝門人大栄山人の名で黄表紙(尽用而二分狂言)を発表した。以後、儒教思想にもとづく教訓、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著し、読本作家の第一人者と称された。
天保5年(1834)頃より眼を患い、晩年は失明しながらも、口述・代筆で著作を続けた。読本・黄表紙から随筆にいたるまで、約470種にものぼる著作を残している。 |
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<滝沢馬琴・住居跡>(上の画像)
文政6年、滝沢馬琴(1767〜1848)は九段中坂よりここに移り、天保7年まで住んでいた。千代田区立昌平小学校のすぐ横(道路をはさんで横)にある。小さな看板があるだけで、見落としてしまいそうな所である。
滝沢馬琴は江戸時代のベストセラーである「南総里見八犬伝」をはじめ「椿説弓張月」、「近世説美少年録」などを著している。代表作は何と言っても「南総里見八犬伝」である。この大長編小説は、文化11年(1814)から書き始めて、天保13年(1842)まで28年もかかったそうです。亡くなる6年前頃まで書き続けていたことになる。
世の中の 役をのがれて またもとに 還るは天と 土の人形 |
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