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<芥川龍之介・生育の地>
芥川龍之介は、明治25年(1892)3月1日、東京市京橋区入船町8丁目1番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれた。辰年辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれる。生後7ヶ月で、当時本所区小泉町15番地(両国3丁目)に住んでいたふくの長兄、芥川道章に引き取られ、13歳の時、芥川家の養子となった。
芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭であった。
明治43年(1910)19歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成した。「大道寺信輔の半生」「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができる。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校附属幼稚園に入園、翌年同小学校(両国小学校)に入学した。明治38年(1905)府立第三中学校(両国高等学校)に入学、明治43年(1910)成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学した。その後、大正2年(1913)東京帝国大学英文科に入学、大正5年(1916)卒業した。
大学在学中、同人雑誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目漱石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場した。初期には「羅生門」「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍した。また、小説以外にも詩、俳句(高浜虚子に師事)、評論、随筆にも優れた。
昭和2年(1927)に35歳の生涯を閉じた。遺稿に「西方の人」「歯車」「或阿呆の一生」などがある。
龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられている。 |
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<芥川龍之介・文学碑>
この文学碑は龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節を引用したものです。この両国の地に成育し、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家、芥川龍之介の人生感を学ぶ氏の文才を偲ぶものとして両国小学校創立百十五周年の記念事業として、平成2年(1990)10月に建立されたものです。
『−お前はもう仙人になりたといふ望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になったら好いと思ふな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の聲には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)っていました。』「杜子春」より(所在地:両国小学校) |
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これより下は「芥川龍之介・生誕の地」です。 |
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<芥川龍之介・生誕の地>
明治16年(1883)ごろ、この付近(当時の京橋区入舟町8丁目1)に「耕牧舎」という乳牛の牧場があった。作家芥川龍之介(1892〜1927)は、明治25年3月1日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれた。
龍之介は誕生後7ヶ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国3丁目)に移り、12歳の時、芥川家の養子になった。
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』、『羅生門』、『河童』、『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺したが、昭和2年7月24日、35歳で自害している。 |
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