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田沼意次は、享保4年(1719)、8代将軍徳川吉宗の側近・田沼意行の長男に生まれた。秀才の評判高く、16歳で徳川家重の小姓に登用。宝暦8年(1758)、遠州相良藩(現:牧之原市)1万石の大名に出世した。
10代将軍家治の代になると、側用人・老中を歴任。商業資本を積極的に利用する大胆な改革を実施し、幕府財政の好転に成功した。
その後も蝦夷地開拓など新事業に挑戦したが、天明年間に入ると、相次ぐ天災で財政が悪化。嫡子の意知が殺害されるなど不運が続き、天明6年(1786)に失脚する。
天明8年(1788)道半ばにして70歳で死去した。墓所は東京都豊島区駒込の勝林寺にある。
人柄は謙虚で礼儀正しく、将軍への忠義は人一倍だったと伝えられる。
この銅像は、牧之原市史料館所蔵の肖像画をモデルに、側用人から老中に駆け上がる頃の40歳代の姿を再現したものである。 |
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御用取次の職務は、将軍の手足となって、その意思を伝達したり、意見を具申したりすることで、本来ならば、幕府の政策決定に直接関係することはできなかった。
しかし、美濃郡上一揆によって元来不可能なはずの評定所へ出席し、しかも家重の意思を「律儀」に果たしたことは、意次を幕府の実力者へと押し上げた。いわゆる田沼時代は、ここから始まったと考えられている。
宝暦8年(1758)11月、意次は遠江国相良(さがら)に1万石の領地を与えられ、ついに大名へと出世した。 |
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意次の地位と権力は、10代家治の厚い信頼によって支えられていた。そのため、最大の理解者である家治の死去は、意次の失脚を決定的にした。
天明6年(1786)10月、意次は、遠州相良藩5万7千石の領地のうち2万石の没収と、大坂蔵屋敷及び江戸神田橋上屋敷の返上、謹慎を命じられた。その後、一旦謹慎は解かれたが、天明7年(1787)10月、2万7千石の没収と隠居、再度の謹慎を命じられた。既に老中を辞職していたにもかかわらず、処罰が追加されるという異例の対応だった。
幕府による処罰は、家督を相続した孫の意明(意知の長男:おきあき)にも向けられた。相良城と領地はすべて没収された。代わりに陸奥国下村(現:福島県福島市下村)へ1万石の領地を与えられ、かろうじて大名家として存続することを許された。
なぜ、ここまで徹底的に処罰されたのか。その理由は、天明7年(1786)6月、松平定信が老中に就任したからであった。定信は、いわゆる寛政の改革を始めるにあたって、田沼時代の否定と新時代の到来を演出するため、意次及び田沼家を処罰したと考えられている。
天明8年1月、意次の象徴たる相良城の取り壊しが行われた。一つの時代が終わった瞬間だった。(説明文は現地解説文を引用) |