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<石川啄木居住地跡>
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」
薄幸の詩人石川啄木が、家族を迎え、住んだ青柳町の借家跡は、この付近の路地である。岩手県澁民村(現玉山村)で辛酸の生活を味わった啄木は、明治40年(1907)5月初め、一家離散を余儀なくされた。啄木が新天地を求め、妻節子と長女京子を盛岡の落合家に預け、母カツを知人宅に託して妹光子だけを伴い、津軽海峡を渡り函館に着いたのは5月5日のことである。(妹は、そのまま小樽の義兄のもとへ向かった)
啄木を温かく迎え入れたのは、文学愛好家グループ「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)の同人達であった。啄木の日記に「四十頁の小雑誌なれども北海における唯一の真面目なる文芸雑誌」と記された文芸誌「紅苜蓿」は、のちに啄木が主筆となり、一切の編集責任をまかされることとなるが、その苜蓿社は、この地より左手の青柳小学校の上辺にあり、一時啄木はそこに仮住まいをしていた。
7月7日啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え、新家庭づくりにかかるが、不幸にも8月25日、大火が発生し、勤めていた弥生尋常小学校も函館日日新聞社も焼けてしまった。
職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4個月余でりで終わりを告げたのである。 |
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