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正岡子規は、慶応3年(1867)9月17日(新暦10月14日)、松山藩士正岡常尚の子として松山に生まれた。本名を常規(つねのり)、幼名を升(のぼる)といった。
松山中学校に学んだ子規は明治16年(1883)に上京、東京大学予備門、帝国大学文科大学へと進学した。しかし、肺を病んで明治22年(1889)に喀血、その頃から本格的に文学を志し、やがて大学の中退を決意する。25歳で日本新聞社に入社し、新聞「日本」紙上で俳論や歌論、文章論などを次々に発表。「写生」を唱え、近代文学の革新を進めた。
明治28年には日清戦争の従軍記者として中国に渡るが、病を悪化させて帰国。松山に帰郷して「愚陀佛庵」で夏目漱石と52日間の共同生活を送った。
晩年は病床での生活を余儀なくされたが、東京・根岸の子規庵には、日々多くの仲間が集う。病苦の中で文学活動への熱意はますます高まり、特に随筆「病牀六尺」は死の二日前まで新聞「日本」に掲載され続けた。
明治35年(1902)9月19日、子規は34歳11ヶ月で亡くなった。子規の文学革新運動は夏目漱石、河東碧梧桐、高浜虚子、伊藤左千夫、長塚節ら多くの人々によって受け継がれ、のちの時代の文学に大きな影響を与えた。
<子規堂>(愛媛県史跡)
正宗寺境内の子規堂は、もと松山市湊町4丁目1番地にあった子規の旧居の一部を移して建てたものに始まる。正岡子規(1867〜1902)は、温泉郡藤原新町(現在の松山市花園町)で生まれたが、まもなく湊町4丁目に転居。17歳で上京するまでここに住んでいた。
大正15年(1926)、この旧宅の用材を使い、柳原極堂の記憶に基づいて、最初の子規堂が建てられた。その後、昭和8年(1933)の火災、昭和20年(1945)の松山空襲によって2回焼失した。
現在の建物は、昭和21年(1946)の再建である。室内には、子規の遺墨や遺品が数多く展示されている。また併せて、虚子・漱石・鳴雪等有名俳人の貴重な遺墨も数多く展示されている。
高浜虚子 |
笹啼(ささなき)が 初音になりし 頃のこと |
俳誌「ほとヽぎす」は、明治30年(1897)柳原極堂が子規の支援によって松山で創刊し、20号まで発行。その後高浜虚子が継承したもので、昭和21年(1946)11月「ホトトギス」600号記念会を当寺で催し、昭和24年(1949)10月24日記念句碑建立となった。 |
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子規は学生時代にベースボールに熱中し、自分の幼名にちなんで「野球」というペンネームを用いている。また、ベースボールを題材にした俳句や短歌を詠んだほか、新聞「日本」の中でベースボールを紹介し「投者」「打者」「走者」「直球」などの用語の訳語を作っている。このような野球普及への貢献が高く評価され、子規没後100年にあたる平成14年(2002)1月に、野球殿堂入りを果たした。
まり投げて 見たき広場や 春の草 (明治23年(1890)春) |
<子規と野球の碑>
正岡子規は、わが国野球草創期に選手として活躍、明治20年代はじめて松山の地にこれを伝えた。最も早くベースボールの技術、規則を訳述解説し、その妙味を強調してひろく世に推奨「野球」の名付け親と称される。また短歌、俳句、小説など文学の題材に初めてこれを取り入れた。実に子規は球界の先駆者であり、普及振興の功労者である。
打ちはづす 球キャチャーの 手に在りて ベースを人の 行きがてにする
今やかの 三つのベースに 人満ちて そゞろの胸の 打ち騒ぐかな |
ベースボールの歌(九首のうちの二首)は新聞「日本」に明治31年(1898)5月24日発表。若き日の子規はスポーツマンで野球に熱中して「ベースボールほど愉快にみちたる戦争は他になかるべし」と書き残している。(明治21年(1888)「筆任せ」) |
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<子規の勉強部屋>(上左画像)
この三畳の小部屋は、子規が松山中学に入ってから増築して貰った勉強部屋で、天井もない粗末なもの。この部屋で作った文章には櫻亭仙人(13歳)老櫻漁夫(14歳)香雲散人(15歳)等と皆櫻に因んだ雅号を用いているのは、庭の桜の老樹の影響と言う。「子規」という号は明治22年(1889)数え年23歳の時につけたもの。
<居間(六畳)>(上右画像)
玄関わきの三畳の部屋が出来るまで、子規はこの窓際に机を置いて、勉強をしたいたと言う。 |
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<子規堂内部の様子>
正岡子規、本名正岡常規(つねのり)。慶応3年9月17日松山市に生まれる。明治35年(1902)9月19日36歳で死去。子規17歳、我が国に入って来たベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とをかけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。やがて松山の地に初めて野球を伝えた。明治25年(1892)日本新聞社の社員となる。日清戦争に従軍記者で活躍、明治28年(1895)東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇にたっていた。
漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている。新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。また、叙事文、写生文を提唱し当時の小説家達に影響を与えた。子規堂は文学なかまであった正宗寺住職仏海禅師が業績を記念して子規が17歳で上京するまでの住居を、寺の中に残した。 |
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<子規埋髪塔>
子規は明治35年(1902)9月19日死去。10月28日ここで遺髪埋葬式と追悼会が行われ、三周忌にこの髪塔が建立された正宗寺の住職仏海が遺髪を埋めて建立したもので、拝石に彫られた子規像と文字は、子規と親交のあった下村為山による。昭和23年(1948)10月28日、県の「記念物・史跡」に指定された。
与謝野晶子 |
子規居士と 鳴雪翁の 居たまへる
伊予の 御寺の 秋の夕暮 |
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<坊ちゃん列車の客車>
子規堂前の「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊っちゃん」でも有名である。
この箱車は、いまから80年ほど前、伊豫鉄道株式会社が創業当初の明治21年(1888)10月28日に、松山ー三津間(料金3銭5厘)に開通した我国最初の軽便鉄道の客車です。
夏目漱石の小説、坊っちゃんでは「マッチ箱のような汽車だ」といわれ、以来、坊っちゃん列車の愛称で全国に知られている(この列車の機関車は梅津寺遊園地に展示してある)何しろ米が一升4銭5厘という時代に、ドイツから組み立てたまま木箱に詰めて機関車と共に運ばれてきたものですが、あれから50年間、雨の日も風の日も走り続け、ある時は強い風に吹き倒されたり、又ある時には牛に衝突して脱線した。
枯野原汽車に化けたる狸あり 漱石
等々、いま考えると嘘のような本当の逸話がたくさんあります。文化はレールと共に伸びるといわれるが、子規も漱石もこの客車で道後温泉へ通ったものと思うと、気が遠くなるような郷愁と時代の流れを感じさせられる。
<「坊っちゃん」を書いた人 夏目漱石>
停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思ったら、もう降りなければならない、道理で切符が安いと思った。たった三銭である。(小説「坊っちゃん」より) |
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正岡子規生い立ちの家の石碑が、道路の真ん中(中央分離帯に当たる所)にある。 |
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<子規誕生地>
慶応3年(1867)9月17日、この付近(旧藤原新丁)で生まれた。上京して俳句の道に進み、革新的歌論や写生文を唱導して活躍した。カリエスのため7年間病床生活を送り東京根岸の子規庵で36歳の短い生涯を閉じた。 |
松山出身の俳人 |
名前 |
誕生 |
死去 |
正岡子規 |
慶応 3年 9月17日 |
明治35年 9月19日 |
柳原極堂 |
慶応 3年 2月11日 |
昭和32年10月 7日 |
高浜虚子 |
明治 7年 2月22日 |
昭和34年 4月 8日 |
内藤鳴雪 |
弘化 4年 4月15日 |
大正15年 2月20日 |
河東碧梧桐 |
明治 6年 2月26日 |
昭和12年 2月 1日 |
石田波郷 |
大正 2年 3月18日 |
昭和44年11月21日 |
中村草田男 |
明治34年 7月24日 |
昭和58年 8月 5日 |
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