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<高杉晋作・療養の地>
慶応2年(1866)6月から始まった四境戦争(薩長戦争)で、奇兵隊など緒隊を率いた高杉晋作は、小倉口に迫った幕府軍を撃退した。しかし、この頃から肺結核を患っていた晋作は、戦場から離れることを余儀なくされる。
さらに、病状が悪化した10月頃、桜山神社近くの当地に、東行庵(とうぎょうあん)または捫虱処(もんしつしょ)と名付けた小さな家を建て、おうのと野村望東尼(のむらもとに)の介抱を受けながら静養をすることになった。この碑に刻まれた漢詩(七言絶句)は、この療養生活中に詠まれたものです。
その後、妻雅子も看病に駆けつけたが、慶応3年(1867)4月13日(命日は4月14日)に、晋作は新地の林算九郎宅で27年8ヶ月の生涯を閉じた。(本来の療養の地は、この場所より少し上にあったようです) |
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落花斜日恨無窮 |
花は落ち 日は傾き 恨み窮り無し |
自愧残骸泣晩風 |
自ら愧ず 残骸晩風に泣くを |
休怪移家華表下 |
怪しむを休めよ 家を華表の下に移すを |
暮朝欲拂廟前紅 |
暮朝 廟前の紅を拂わんと欲す |
<漢文意味>
散りゆく花も、沈みゆく夕日も、恨みは窮まりない(思いは尽きない)。
(しかしながら)病気で衰える体に嘆いていることを愧じている。
桜山に移り住んだことを疑わないでほしい。
朝夕に廟前の紅葉(落葉)を掃き清めたいだけである。 |
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