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<下田歌子略伝>
下田歌子は安政元年(1854)に岩村藩士平尾?蔵(しゅうぞう:しゅう→金へんに柔)の長女としてこの地に生まれ、鉐(せき)と名付けられた。明治4年(1871)18歳で父の元へ上京、翌5年に宮中の女官に登用された。宮中での歌会にいつもすぐれた和歌を詠み昭憲皇太后より歌子と名を賜った。
明治12年(1879)退官して下田猛雄と結婚したが明治17年(1884)に夫が死去したので再び宮内省に出仕し、華族女学校の創立に参画、明治18年(1885)に華族女学校教授となった。
明治26年(1893)に欧米に出張して女子教育を視察、明治32年(1899)に実践女学校及び女子工芸学校を創設して校長となった。現・実践女子学園である。同校で中国(清国)から女子留学生を多く受け入れて教育し、孫文とも親交が深かった。明治40年(1907)に兼任していた学習院教授兼女子部長を勇退した。大正9年(1920)には愛国婦人会長に就任して活躍した。
下田歌子は女子教育に一生を捧げ学者であり歌人であり、社会奉仕家で意志強固、熱弁家で男子を凌ぐ。明治・大正の日本未曾有の女傑で才色兼備の女性であった。昭和11年(1936)83歳で死去した。明治41年(1908)特旨を以て従三位勲三等に叙せられた。
<下田歌子顕彰碑>
綾錦 着て帰らずは 三国山 またふたたびは 越じとぞ思ふ |
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<下田歌子勉学所>
下田歌子の祖父は東条琴台で、「聖世紹胤録」など多数の著述をもつ学者であり、父しゅう蔵も岩村藩校知新館の教授をしたことがある学者の家庭に生まれ育った。女史は5歳で俳句をつくり和歌も詠み、7、8歳にして美事な韻を踏んだ漢詩を賦し、神童と呼ばれた。
しかし女であるため、すぐ近くにある知新館で学ことは許されなかった。家庭において祖母貞から読み書きの手ほどきをうけ、祖父と父の豊富な蔵書を読みあさって、次第に頭脳を多彩的なものとし、詩的な情操をより豊かにしていった。独学で修めた和漢学は知新館の教授も驚嘆するほどになった。
この室は父の書斎であり、歌子の勉強した室である。幼い頃から女史の胸中に秘かに燃えていた炎は、女というだけで知新館へ入学できなかったという反発であった。
17歳で上京し、やがて実践女子学園を創立するにいたった苦難の道を進むのを支えたのは、この炎であった。(この勉学所は、下田歌子が勉学に勤しんだとされる勉強部屋(父の書斎)を復元したものである) |
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