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坂本龍馬は、郷士坂本八平の次男・実名直柔(なおなり)として天保6年(1835)11月15日に生また。12、3歳の頃までは自然児の時代であって、近くの境川で水泳をしたり、坂本山のある紫巻でうさぎ追いなどに夢中になっていた。14歳になって築屋敷にあった小栗流・日根野道場に通い始め、周囲も驚くほど熱心に修行した。
19歳の春、江戸に出て北辰一刀流・千葉定吉道場で修行し、父親の厳しさと乙女姉さんの愛情に包まれて、たくましく、やさしさを一身にそなえた青年龍馬に成長した、
また、江戸では佐久間象山・土佐では徳弘董斎に洋式砲術を学んだり、中浜万次郎の漂流体験を聞き取った河田小龍を訪ねて世界の情報と日本の現状、通商航海の必要性を聞かされ、大いに啓発されている。 |
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龍馬は、武市瑞山の土佐勤王党に参加したものの、いち早く観念的な尊王攘夷論から脱却していた。28歳の時に脱藩したのち勝海舟の弟子となり、神戸の海運塾の塾頭を務めた。のち、長崎で日本最初の近代的商社といわれる亀山社中をつくり、中岡慎太郎等と協力して薩長同盟の成立に尽力した。さらに、土佐藩の参政・後藤象二郎と提携して、志をもつ青年たちを集めた海援隊を率いて活動し、大政奉還建白への道を開く「船中八策」を発表して、近代日本のあるべき方向を説いている。
幕末のまだ閉鎖的な日本人が多いなかで、龍馬の行動ぶりは型破りのスケールの大きさを感じさせるものがあった。下関に寓居を移して自然堂という雅号をつけているように、自然体で次から次へと維新の大事業をなしとげていった。
慶応3年(1867)11月15日、京都の宿舎近江屋で、反対勢力の襲撃にあい、同志中岡慎太郎ととに斬られる。わずか33歳でその生涯を終えたのであった。
作家司馬遼太郎は龍馬の行動について維新の奇蹟としか言いようがないと述べており、現代でも龍馬は永遠の青年のシンボルとして生き続けている。 |
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