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戊辰の役には藩兵千人を率い東山道先鋒を務めた。立志社をつくり自由民権運動を起こす。自由党の総理(党首)となり全国遊説中、明治15年(1882)岐阜で刺される。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は有名。晩年は社会事業に全力をあげる。
<自由は土佐の山間より出づ>
天保8年4月17日高知城下中島町に生まれる。旧姓乾(いぬい)。慶応3年(1867)京都で中岡慎太郎の紹介で薩摩の西郷隆盛らと倒幕の密約をし、帰藩後大隊指令となり兵制改革に努めた。
明治7年(1874)高知に立志社を創立して自由民権運動に身を捧げ、翌年岐阜で演説中に暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」の劇的な一言を残した。
退助の民権思想は世論を動かして、憲法発布・国会開設へと進んでいった。晩年は社会改良運動を進めた。大正8年(1919)7月16日病死。享年83歳。(1837年〜1919年) |
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近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1837)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、旧姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊辰戦争の折に先祖の板垣姓を名乗り、武勲を立てた。
維新後、新政府の参議に列したがやがて下野。明治7(1874)1月、民選議員設立建白書を左院に提出したのち帰高。同年4月、高知に立志社を創立して自由民権論を唱えた。
明治14(1881)10月、自由党総理に推され、翌春、東海道を遊説の途上、4月6日岐阜中教院で暴漢に刺された。血潮に染まりながら板垣の叫んだことばは、いつしか「板垣死すとも自由は死せず」の名文句となり、怒涛の如く全国に伝承され自由を求めて闘う人々を大いに勇気づけた。
明治20年(1887)5月、伯爵を授けられたが一代華族論を唱え、一代限りで拝辞した。以後、内務大臣に任じられること2回、晩年は政界を隠退し、社会改良運動に専念した。相撲や居合道などの発展のためにも尽力したが、大正8年(1919)7月16日、83才で死去した。遺著に「一代華族論」・「武士道」・「神と人道」・「獨論7年」・「立国の大本」等がある。(板垣退助の像は高知城内にある) |
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