|
|
|
|
|
|
天保11年(1840)豪農・渋沢市郎右衛門の子として誕生。昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。日本実業界の祖。稀有の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で検分したもの全てが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貪欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと決別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
二年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向かって、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主であった。私利私欲を越え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力の全てを尽くして、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
設立した多くの会社は、多くの変遷、消滅。解散などを経てきた。第一国立銀行は幾多の変遷を経て、現在のみずほ銀行やみずほコーポレート銀行につながっている。東京ガス、東京海上日動、王子製紙、太平洋セメント(旧秩父セメント)、帝国ホテル、東京製綱、澁澤倉庫、東洋紡績(TOYOBO)、日本郵船(旧共同運輸会社)、サッポロビール、東京急行電鉄や東急不動産など今につながっている。(画像提供:M・Mさん) |
|