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頼山陽は、江戸時代後期に活躍した漢学者・文人で、幕末の志士たちに多大な影響を与えた歴史書「日本外史」の著者として知られている。
安永9年(1780)に大坂で生まれた山陽は、翌天明元年(1781)に広島藩が学問所を創設するのに伴って、父春水(しゅんすい)が儒学者として登用されたため、翌年両親と共に広島に移住する。
寛政元年(1789)、父春水は藩から杉ノ木小路(すぎのきしょうじ)(今の袋町・中町の境)に屋敷を拝領する。この屋敷は、現在の頼山陽史跡資料館の敷地にあった。
山陽はここで成長し、寛政9年(1797)には1年間江戸に遊学する。そして、寛政12年(1800)に脱藩して京都に行くが、すぐに連れ戻され、屋敷の離れに幽閉された。この離れが、現在の頼山陽居室である(当時の居室は原爆で焼失し、昭和33年(1958)に復元された)。
5年間幽閉された山陽は、その間ひたすら文筆活動に専念し、歴史書「日本外史」の草稿をまとめた。幽閉が解けると、山陽は神辺(福山市)や京都に移り住み、様々な著述に励んだ。そして、天保3年(1832)に53歳で亡くなった。
頼山陽の座像は、平成27年(2015)に資料館開館20周年を記念して作られた。資料館入口に展示している戦前の頼山陽像を元にしている。 |
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天保3年天保3年8月に、頼山陽が門人の東山義亮(大雅堂三世)に描かせた数枚の肖像画のうちの1枚です。画賛の文はこの時山陽が作ったもので、病の不治を悟った山陽が自身の生きざまについて誇りをもって振り返り、将来の評価を期している。
山陽はこの年6月12日に喀血し、次第に病状が悪化していた。しかし、最期まで歴史書「日本政記」や政治経済論「通議」などの執筆に情熱を燃やした。
なお、本図の画賛は、嘉永3年(1850)初夏に、江木鰐水(山陽の門人)のもとめに応じて、山陽の子三樹三郎(1825〜59)が記したものである。 |
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<日本外史>
「日本外史」の刊本としては、天保7〜8年(1836〜37)頃に中西忠蔵(加賀藩家老の家臣で、のちに幕府の御切手同心)が「拙修斎叢書」の一部として出版した木活字本が最も古いものだが、弘化元年(1844)に川越藩が「校刻日本外史」を刊行したことにより「日本外史」は普及した。
その後、嘉永元年に山陽の三子(聿庵・支峯・三樹三郎)の校閲による「頼氏蔵版」の「日本外史」が刊行され、「頼氏正本」といわれている。 |
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<頼山陽居室>
居室は原子爆弾で焼失したが、昭和33年、広島県が復元した。居室を含む30坪余の地域は国の史跡に指定されている。
頼山陽史跡資料館は,このような生涯を送った頼山陽や広島の近世文化に関する様々な資料を展示している。 |