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大隈重信は天保9年2月16日佐賀会所小路に、佐賀藩士の子として生まれ、大正11年(1922)年1月10日歿した。墓は東京・護国寺にある。
生家は約300年前の江戸時代に建てられた禄高300石取りの武家屋敷。敷地314坪、建坪55坪の比較的大きな武家屋敷です。八太郎(大隈重信の幼名)が藩校弘道館の蒙養舎に入学する際(6歳)に、母の三井子の希望により、それまで平屋であった建物を増築し、2階に勉強部屋を作った。昭和40年(1965)に文化財保護法により、国の史跡に指定されている。
<2階勉強部屋>
階段を上ると左手奥に梁のでっぱりを確認することができる。これは、勉強中に眠くなった際、そこに頭がぶつかって目が覚めるようにという母三井子の配慮によるものといわれている。
<蔀(しとみ)>
格子組の裏に板を張った戸で、支柱で支えて開ける。昔の建物に多く見られ、雨、風、日光を防ぐために取り付けられた。
<床>
床の高さ低く、間者(忍びの者)が床下に潜り込めない構造であった。また一説には、佐賀鍋島藩の質素倹約の令にしたがい、建築用木材の節約のためともいわれている。 |
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玄関。下は生家内部の様子。
<長押(なげし)>
座敷の鴨居の部分に、横に指し渡した飾りの長板。武器(槍、刀)等の隠し場所としても利用された。
<居間>
家の中心に位置し武士が話し合う時、声が外に漏れない構造に作られている。 |
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大隈重信の主な業績は、明治維新後であって、政府の官僚として明治初期における国家の基礎確立に尽すところ多く、また国会、政党政治の実現を主張し、自ら立憲改進党を組織した。明治31年(1898)年6月および大正3年(1914)4月の2回政党内閣を組織して総理大臣となった。鉄道の敷設、新通貨制度(”円”制度)の創設、郵便事業、太陽暦の採用など、日本の近代化の基礎を築いた。
また、学問の独立を求めて東京専門学校(早稲田大学)を創立し、政治と教育文化の向上とを兼ね備えた点、政治家の多い内にあって、まさしく独特である。
家は、父熊之允が、天保3年買得したもので、生誕以来、重信はここを住居とし、幕末の動搖期に国事に奔走したのも実にこの家にいる頃で、明治元年ここを去って東京に出た。 |
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佐賀地方によく見るかぎ家で、二間ばかり北方にひかれ、玄関に改造のあとあり、また台所は撤去されて管理部屋が附設される等、変改のあとはあるが、座敷、次の間、居間等主要部はよく残っている。2階の部分は、母が重信のために建て増したといわれている。著名な人物の旧宅として重要であるばかりでなく、武家屋敷の遺例としても貴重である。 |
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<大隈重信が使用した義足>
明治22年(1889)当時外務大臣の大隈は、過激運動家に爆弾を投げつけられ、右足を切断する大怪我を負った。以降、義足で過ごすこととなった。
所有するアメリカ製3足のうちの1足である。座ることの多い日本の生活様式にはあまり合わず、ひざ関節部の損傷が激しい。
<緋色のガウン>
早稲田大学総長 大隈重信が愛用したガウン。(複製)大正2年(1913)10月の創立30年式典の際、同大学学長 高田早苗らの考案で作られ、大隈に贈られた。ガウンを受け取った大隈は直ぐさま羽織り、子どもように喜んだといわれている。大隈は大正11年(1922)1月の逝去の日まで総長に在任し、緋色のガウンを愛用した。 |
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<母 三井子の人生五訓>
1.喧嘩をしてはいけません
2.人をいじめてはいけません
3.いつも先を見て進みなさい
4.過ぎたことを、くよくよ振り返ってはいけません
5.人が困っていたら助けなさい |
<大隈重信の政治家五訓>
1.物事は楽観的に見よ
2.怒るな
3.愚痴を言うな
4.むさぼるな
5.世のために働け |
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