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<緒方洪庵旧宅および塾>
この建物は、幕末の医師・蘭学者であった緒方洪庵が弘化2年(1845)に買い受けて、天保9年(1838)に大坂瓦町に開いた私塾・適塾(適々斎塾)を移築した場所である。洪庵は、文久2年(1862)に幕府の奥医師として江戸へ迎えられるまでの約17年間にわたり、ここに居住した.
洪庵は、ここで諸国から集まった門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人物を育てた。
敷地は間口約12m、奥行約40mあり、主たる建物は、主に教室に使われた表屋(前方部)と、洪庵と家族の居室にあてられた主屋(後方部)からなり、南庭に土蔵と納屋がある。表屋は寛政4年(1792)の北浜大火後まもなくの建物と考えられ、もとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に若干の改造が行なわれたみられる。
表屋は二階建ての一階を教室、二階を塾生部屋とし、主屋は一部二階建てで西側に通り庭を持ち、台所・書斎のほか四室がある。台所の二階にはヅーフ部屋と女中部屋がある。
洪庵が出府してのち,再三の改造があり、大正4年(1915)には前面道路の拡幅によって約1.2mの軒切りが行なわれた。昭和51年(1976)から55年にかけて行なわれた解体修復で、軒切り部分を除いて、概ね洪庵居住当時の姿に復原した。平成25年(2013)から同26年には、文化財的価値に配慮した耐震改修工事を実施した.
この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世における大坂北浜の町屋建築の姿を示す重要な遺例である。
この建物は昭和17年(1942)、国に寄附されるととなり、洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設立された大阪仮病院や大阪医学校を源流とする、大阪帝国大学(当時)へ移管された。現在はこれを大阪大学が所有し、一般公開している。建物内部では、適塾および洪庵の事蹟を伝える資料展示を行なっている。重要文化財 |
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幕末の蘭学者「緒方洪庵」の適塾。蘭学を学びたい者は誰でも入ることができた。緒方洪庵は、幕末における日本の蘭医学者の第一人者で、備中足守藩(岡山)出身。16歳の時に父の転勤に伴い大阪へ出てくる。天保7年(1836)蘭学を学ぶために長崎へ遊学する。天保9年(1838)大阪で医業を開業し、同時に「適々斉塾(適塾)」を開く。文久3年(1863)6月10日突然多量の喀血により急死。54歳であった。
適塾からは明治に活躍した多くの人材(大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎、高松凌雲、池田謙斎など)を輩出した。
<福澤諭吉と適塾>
天保5年(1835)大阪・堂島の中津藩屋敷で生まれた福澤諭吉、安政2年(1855)適塾に学び青春時代を過ごした。安政5年(1858)江戸に出て蘭学塾を開き、慶応4年(1868)慶應義塾を開設する。そして、明治6年(1873)最初の分校が大阪に開校された。大阪慶應義塾の碑が北浜2丁目に残されている。
<緒方洪庵と除痘館>
医師・緒方洪庵は、コレラの治療、天然痘の予防などに大きな貢献をしている。嘉永2年(1849)多くの医師とともに、当時多数の志望者を出していた天然痘の予防のため、除痘館(じょとうかん)を古手町(現・道修町4丁目)に開設し、種痘を行った。万延元年(1860)今橋3丁目に移し、各地に種痘ワクチンを送るなど普及活動に尽力した。 |
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<船場>
船場は、東西南北を4つの堀川(土佐堀川、東横堀川、長堀川、西横堀川)に囲まれた区域で、江戸時代に「天下の台所」といわれ栄えた大阪の経済・文化の中心地であった。今も碁盤目状の街区が残り、古い歴史と豊かな市民文化が息づいている。 |