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<如己堂>
長崎市名誉市民、永井隆医学博士の病室兼書斎。
島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻した。当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血病、余命3年」と宣告された。
その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って、妻までも失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまった。
しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆した。
博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と名づけ、ここで2人の子どもと生活した。そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の尊さを発信し続け、昭和26年(1951)5月1日、43歳で永眠した。
博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっている。 |
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この二畳ひと間の小さな家は昭和23(1948)年春長崎浦上の隣人から贈られたものです。
永井隆博士は「己の如く人を愛せよ」というキリストの「みことば」を常に口に実行する人でした。
博士は家を建ててくれた人々の心を忘れず自分もこの愛に生きようとする心から「如己堂」と名づけました。昭和26(1951)年5月1日、43歳の生涯を閉じたその日まで書斎兼病室としてここに住んでいた。 |
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<帳方屋敷>(如己堂のところ)について
慶長18(1614)年、徳川家康が禁教令を発布したことにより、宣教師は国外に追放、教会はすべて破壊されてしまった。
当時、長崎地方には約5万人のキリスタン(キリスト教徒)がいたが、武力抵抗はせず、以後250年間潜伏した。
この間、教義を伝えるための組織がつくられた。
指導者の頭を「帳方」と呼び、四つの郷に「水方(洗礼を授ける役)」を一人ずつ、さらには、各字に「聞役(指令伝達役)」を一人ずつ配置した。
この組織をつくり、初代の帳方を務めたのが孫右衛門で、以後その子孫が帳方を継承し、七代目吉蔵(浦上三番崩れで入牢、獄死殉教)まで続いた。ここはその屋敷跡である。
永井博士の妻、緑さんは、吉蔵の子孫にあたる。 |