|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
御木本幸吉は、安政5年1月25日鳥羽で代々続くうどん屋『阿波幸』の長男として生まれる。祖父吉蔵、父音吉の名をもらい幼名は吉松。母はもと。やがて8男3女(男2人は幼少のとき死亡)の大家族となる。
祖父吉蔵は「後ろにも眼がある」といわれたほど商才があり、うどん屋のかたわら海運業や青物・薪炭の販売も手がけ『阿波幸』の財を築いた。吉松はこの祖父に最も大きな感化をうけ可愛がられて育った。
父音吉の代になった頃から、家業は下火になり吉蔵が遺した5つの粉倉も売ってしまう。音吉は病弱だったが研究心が強く、粉ひき機を改良・考案。県から奨励金を受けた。吉松は父からこの研究心を受け継いだ。
世界で初めての養殖真珠が生まれたのは鳥羽ですが、御木本幸吉は同じ時期に英虞湾でも養殖の実験をしていた。実験を始めた頃は、英虞湾の沿岸で買い集めたアコヤガイを自分で桶を背負って六里(約24q)の山道を鳥羽まで運んだそうです。
真珠養殖に成功してからは、養殖基地を英虞湾にある田徳島(現・多徳島)に設け、真珠事業を拡大していった。また、真寿閣と名付けられた住まいからは英虞湾が一望でき、幸吉はここからの風景もいたく気に入っていた。現在も、入り組んだリアス式の海岸線が続く英虞湾には真珠養殖の筏が数多く浮かび、伊勢志摩を代表する風景の一つになっている。
明治29年(1896)半円真珠の特許権を得た幸吉は、うどん屋『阿波幸』を廃業し、本格的に真珠養殖業にのりだす。英虞湾の無人島・田徳島(多徳島)とその周辺の海を借り受け一族で移住しそこを拠点とした。はじめは無収入に加え、真珠母貝の仕込みにも困窮を極めたが……明治31年(1898)に最初の真珠採取、明治33年(1900)の2回目には4,200個の半円真珠を採取し、幸吉の事業はようやく軌道に乗り始める。
<銀座御木本真珠店>
当時、真珠取引の中心は神戸であったが、明治32年(1899)、販売拠点として東京・銀座を選んだ。既に一流の宝石店を目指していた御木本幸吉は、明治39年(1906)、銀座裏からメインストリート(4丁目)に進出。当時は、来店者の大半が外国人で、絹織物や七宝と並んで、御木本の真珠が、日本の特産品として海外に知られていた。また、優秀な人材を欧米に派遣、デザインや製作技術などを視察、習得させていた。
<御木本装身具工場>
素材としての真珠から、完成品としてのジュエリーまで、一貫体制を整備。明治40年(1907)4月、御木本金細工工場を創設。品質・意匠・サービスに至るまでの責任体制によって、海外進出の基盤を固めた。当初から技術面だけでなく、デザイン面も重視され、新進のデザイナーたちが活躍。図案と技法の関連性を研究し、独自の技法とともに「御木本のペーパーデザイン方式」の基礎を築いた。また、工場長の斉藤信吉によって8時間労働や週給制など、時代の先端をいくシステムが既に試みられていた。
<質素な食器類>
夜は胃腸と一緒に寝ると「朝三杯、昼二杯、夜一杯」を提唱。新鮮な魚貝や根菜類を好んだ。
<城下町と港町 二つの顔をもつ鳥羽>
今の鳥羽市から志摩郡一帯を明治までは志摩国といった。その中心である鳥羽は大阪〜江戸間航路の風待ち港。「鳥羽よ鳥羽よとなぜほめる 帯の幅ほどない鳥羽を」と俗謡にうたわれたように船乗りたちにとってはひとときの安らぎを得ることのできる良港だった。
町家の戸数は嘉永5年で816戸。これに武家屋敷を加えれば1,200戸以上になる。しかし、鳥羽城が海上にせりだすという特殊な地形からか武士と町人の交流は少なく、城下町としての文化が育たなかった。風待ち港といってもあくまで中継地点。平地は少なく物資の消費量もわずかで小さな商いの店が軒を並べていた。 |
|
|
|
|
|
<智・運・命>
晩年の幸吉が揮毫(きごう)を依頼されたときにしたためた言葉で、大きな成功を収めるために必要なのは智力と運、そして健康であることが肝心という意味です。人間の叡智の限りを尽くし、人の縁や強運にも恵まれ、そして独自の健康法により96歳という長寿を全うした幸吉は、誰もなし得なかった養殖真珠発明と真珠事業の発展という偉大な成功を収めた。
そして、昭和26年(1951)には昭和天皇を英虞湾の多徳島にお迎えするという栄誉に浴する。終始感激に打ち震えていた幸吉は、島を離れる天皇陛下の御召艇が見えなくなってもその方向を見つめ続けていた。
そして、「これもみな、お伊勢様のお陰だ」と何度も何度も繰り返しお題目のように唱えていたそうです。 |
|