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安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こった。まぐろ編みの権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元側から脱退、漁民に味方して解決をはかったが、争いは収まらなかった。
このため、平七らは漁民250余人とともにムシロ旗を立て韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川太郎左衛門に訴状を差し出した。
代表者平七ら7人は捕らえられ、首謀者と見られた平七は島流しの刑を受け、文久3年10月(1863)江戸から八丈島送りとなった。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島に降ろされ、11月4日35歳で亡くなった。
漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができた。
星露百有余年、今もなお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っている。
<釜鳴屋平七夫妻像>
釜鳴屋平七夫婦像は、文化勲章受章者の澤田政廣作。
安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起った漁民一気の先頭にたった罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ 人間平七の無心愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。
八十五歳 武者小路実篤 |
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