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<東郷平八郎・誕生地>
海から来る敵は海にて防ぐべし
−薩英戦争が15歳の平八郎の運命を決めた−
薩英戦争に東郷家では父子4人がそろって出陣した。生麦事件(横浜市)の直談判のために7隻のイギリス軍艦が鹿児島湾に入ってきて、計101門の砲口を鹿児島に向けていた。文久3年(1863)7月 2日、ついに戦闘が開始され、力の差をまざまざと見せつけられた時、平八郎はじっと海上をにらみ、海軍への道を志した−といわれている。
東郷平八郎もまた、多くの偉人たちが育った下加治屋郷中の出身です。弘化4年(1847)に生まれ、仲五郎といった幼少の頃から、芯の強い子として西郷隆盛の次弟吉次郎に可愛がらた。
戊辰戦争では軍艦春日丸に乗り組み、次々と戦に参加。維新後は海軍の留学生としてイギリスに学び、帆船ハンプシャー号で世界一周を体験した。7年間の留学の最後に、グリニッジの造船所で日本軍艦の建造に立ち会い、新鋭艦で帰国。
その後は一生を海軍に捧げ、ロシアのバルチック艦隊を全滅させ、「東洋のネルソン」としてその名を世界に轟かせた。
<東郷平八郎の主な経歴>
弘化 4年(1847) |
鹿児島市加治屋町に生まれる |
文久 3年(1863) |
薩英戦争に参加 |
明治 元年(1868) |
薩摩藩軍艦乗組み |
明治 4年(1871) |
英国留学 |
明治11年(1878) |
帰国 海軍大尉 |
明治27年(1894) |
日清戦争参加 |
明治29年(1896) |
海軍大学校長 |
明治36年(1903) |
連合艦隊司令長官 |
明治37年(1904) |
海軍大将 |
明治38年(1905) |
日露戦争で、連合艦隊司令長官としてロシアのバルチック艦隊を破る |
大正 2年(1913) |
元帥 |
昭和 9年(1934) |
死去(88歳) |
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