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<西郷隆盛・誕生地>
ー身体も心も目玉も大きかった西郷さんー
「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと)西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町の郷中教育によって培われたといわれている。
文政10年(1827)西郷は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生。(海軍大臣を勤めた従道は三男)貧しい生活の中で藩校造士館通い、次第に下加治屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現す。鹿児島の町には独特の若者組織があり、町毎に区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるのです。
西郷は13歳のとき、右腕を負傷し武芸はあきらめたが、その分勉学に励み、二才頭として郷中の仲間の人望を集めた。西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が育ったことからもうかがえる。
17歳で郡方書役助という地方役人となり、農村を回り、農政についての意見をまとめた。これが後に英明藩主といわれた島津斉彬の目にとまり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです。 |
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西郷従道は、隆盛の弟として、天保14年(1843)に生まれた。戊辰戦争に参加し、維新後は陸軍をつくることに尽力し、のち海軍に移り、海軍大臣、内務大臣をつとめた。
<旧西郷従道邸庭園>
明治7年(1874)、従道は、兄隆盛の隠棲所を営む目的で、目黒の地所を購入した。西南戦争による隆盛の死によって、当初の目的は果たせなかったが、明治33年(1900)までは西郷家の別邸として、それ以降昭和16年(1941)までは本邸として使用された。
庭園は、大きな池と斜面の滝を中心とした広大なもので、明治期を代表する庭園として高い評価をうけていた。
この庭石は、東京都目黒区の西郷従道邸庭園跡地が公園として整備されることにともない、平成12年(2000)12月、目黒区から、西郷従道にゆかりのある鹿児島市の寄贈された。石は、伊豆石、伊予の石、紀州の青石の3種です。 |
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西郷隆盛は、安政2年(1855)12月、下加治屋町の生誕の地を売却し、以来、明治2年(1869)7月、武屋敷に転居するまでの十数年間、この地を借りて居所とした。
この間、藩主斉彬との出会いや僧月照との入水、奄美への遠島、更には江戸、京都での波乱万丈の活躍があり、大久保等も訪れて国事を談じている。この地は、弟吉二郎や従道たちが家を守り、兄の活躍を助けた場所でもあった。
<西郷南州翁宅地跡碑>
西郷隆盛が上之園町に移ってきたのは安政2年(1855)29歳の頃です。その前々年に祖父、父、 母を相次いで失い、下加治屋町の屋敷を売り借金の返済にあてたといわれている。この屋敷では、弟の吉次郎や従道の結婚式が行われ、妹が嫁ぎ、西郷自身も慶応元年(1865)イト夫人と結ばれた。
ここに居住していた時期は、西郷の人生も波乱万丈の時代であった。藩主島津斉彬に才能を認められ、薩摩から日本へと活躍の舞台は広がったものの、その斉彬が急死。近衛家から保護を依頼されていた僧月照をかくまうことが出来なくなり、共に入水自殺を図り遠島流刑を経験する。
その後、大久保利通らの助力によって志士として復活した西郷は、抜群の働きで明治維新の英雄と呼ばれるまでになった。
維新後は、参議、陸軍大将として新しい時代の基礎づくりに大きな役割を果たした。宅地跡の碑は、昭和9年(1934)旧上之園町50番地に建てられていたが、太平洋戦争中に失われたため復元したものです。
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西郷隆盛は幕末維新の指導者で、明治天皇の信頼が厚く日本最初の近衛都督陸軍大将になった。
文政10年(1827)下加治屋町郷中に生まれた西郷は、幼少を小吉(こきち)通称を吉之助といい南州と号した。青年時代に二才頭として農政に関する意見書を提出、藩主島津斉彬の目にとまり、側近に抜擢され、国事への関心を高めた。ところがその斉彬が急死。勤皇僧月照と錦江湾に投身、一人生き残って大島に流された。
その後、大久保利通らの助けで幕府を倒す運動に復帰。藩論を指導し、薩長連合を結んで、王政復古の大号令を決行。東征大総督府参謀として江戸無血開城を実現した。
新政府が樹立した後は、参議として廃藩置県を断行。岩倉具視、木戸孝允らが外遊中の政府を預かった。
明治6年(1873)遣韓使節をめぐる政争に敗れて東京から鹿児島に帰った後は、私学校を開き後進の指導にあたったが、彼らの血気に押され、ついに西南戦争へと突入。明治10年(1877)西郷は城山で自刃した。
この銅像は、郷土出身の彫刻家、安藤照が習志野大演習で陸軍大将の制服を身につけた西郷の姿を思い描き製作したものです。(案内板) |