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<大久保利通・誕生地>
西郷隆盛や木戸孝允とともに明治維新の三傑といわれる大久保利通は、明治政府になってからは、参議、大蔵卿、内務卿などの要職に就き、事実上の日本の首相として、次々と新しい政策にとりくみ、日本の近代化に大きな業績を残した。
西南戦争以後は、駒場農学校を開設して、事業にものりだしまたが、明治11年(1878)5月に紀尾井坂で刺客に襲われ、47歳で生涯を閉じまた。 |
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この地は、大久保利通「生い立ちの地」になっている。ここは誕生地ではないが、ここに住居があった場所です。西郷隆盛の誕生地は、大久保が育ったこの地から約150mぐらいしか離れていない。
<無二の友を敵としても>
ー近代国家建設に命をかけた大久保の苦悩ー
大久保内務卿が庁舎に入ると、雑談はやみ、あたりは氷を打ったように静まり返った・・・子ぼんのうな私生活とは裏腹に、政治家としての大久保利通は厳格さにも凄味があったといわれている。幕末激動期に西郷との絶妙のコンビで明治維新を成し遂げ、新政府樹立後は天才的な政治手腕で近代国家の建設に着手。親友西郷と真向から対立しても、その信念を貫き通した。
大久保は、天保元年(1830)下級役人ながら琉球館付役を勤め、学識豊かな利世(子老)を父として高麗町で生まれ、まもなくこの下加治屋町に移った。3つ年上の西郷とは薩摩独特の郷中教育の中で、兄弟以上の信頼で結ばれていた。
15歳で記録所書役助として出仕。お由羅騒動では、父が遠島、利通も謹慎となりどん底の暮らしを体験する。その後、島津斉彬が藩主となり復活。斉彬亡きあとも、藩の実権を握った久光に信頼され、精忠組のリーダーとして薩摩藩を倒幕の中心勢力に育てあげた。
西郷を嫌った久光を説得し、流刑地から呼び戻したのも大久保の力だといわれている。 |
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<為政清明>
ー藩閥意識を越えて新生日本の近代化に尽くすー
大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。天保元年(1830)に生まれ、幼名は正袈裟、通称は一蔵、号を甲東と称した。幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の当主島津忠義の父久光の信頼を得て、藩政の改革にも手腕をふるった。
薩英戦争後はイギリスとの講和をまとめ開国に目覚めるとともに、沖永良部から西郷隆盛を呼び戻し、歴史的な名コンビとして倒幕に奔走。薩長同盟の締結をみて、ついに慶応3年(1867)明治維新が達成された。
新政府樹立後は政界の中心人物として、版籍奉還、廃藩置県の実現につとめ、大蔵卿時代は地租改正の建議を行った。また、欧米諸国を視察し、帰国後は内務省を設立し事実上の首相ともいうべき内務卿を兼務した。
ところがこの頃から西郷隆盛と対立、西南戦争によって竹馬の友を失った。その大久保もまた、明治11年(1878)出勤途中を襲われ急死。ロンドンタイムスは、「氏の死は日本全国の不幸である」と報じた。 |