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岩崎弥太郎は天保5年(1834)12月11日にこの家に生まれ、波乱に富んだ青少年期をこの地に過ごした。
生家は平家建て4室、藩政時代の中農の屋敷である。表座敷に南面する小庭には弥太郎が自ら置いたという日本列島を形どった石組みがあり、彼はこれに夢をのせたという。庭にある自然石の記念碑は三菱傘下、諸会社有志により建立された。
弥太郎の少年時代よく登った、すぐ西の妙見山には星神社があり、彼が江戸遊学の際ここに祈願し、社殿の門扉に「吾 志を得ずんば再びこの山に登らず」と大書したという。坂本龍馬と同年代の弥太郎は51才で没したが明治維新よりわずか18年に、彼の行った事業は壮大でその後の日本経済、政治にも大きく影響した。 |
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土蔵の鬼瓦には、岩崎家の家紋である山階菱のマークがあり、これと土佐藩主山内家の家紋の三ツ柏を組み合わせて、九十九商会の船旗号がつくられ、ここから現在の三菱マークになったと言われている、明治6年(1873)からである。 |
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<日本列島の石組み>
弥太郎が少年期に、天下雄飛の夢を託して、自ら石を組んだと言われている。「(日本列島は)我が庭の内にあり」といって庭を眺めていたことから、弥太郎の器の大きさを伺い知ることができる。
<龍吐水>
岩崎家の土蔵に保存されていた消火ポンプ車です。箱形の貯水タンクに押し上げポンプを設置し、横木を上下させることで水が噴き出し仕組みとなっている。平成13年に自動車整備工場を営む地元消防団の方が修復した。 |
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岩崎弥太郎先生(1834〜1885)は わが国の近代経済の覚醒期を 豊かな先見性と不屈の精神をもって生き通し 今日の三菱グループの基礎を築いた 優れた学才に裏付けされた天分の経済の才で 政治だけの変革でない「もう一つの明治維新」を成し遂げた人である
安政元年(1854)先生は故郷妙見山上で「後日英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラシ」と決意して 江戸の儒学者安積良斉先生の門に入った 土佐藩藩校教授奥宮慥斉先生の格別の推挙であった
慶応3年(1867)藩命により長崎の土佐商会に赴任し 坂本龍馬の海援隊を財政面から支援した しかし明治6年(1873)「断然官界に志を断ち 商法をもって身をたてる覚悟」で 維新直後の経済界に身を投じ海運国日本・近代工業国日本の地歩を固めるのに大きく貢献した 経済立国によるわが国の繁栄を予見し それを実践躬行した明治維新の英傑であった。(碑文) |