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人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて、負ける事を知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。 |
有名な言葉ですが、後の世の人の作ともいわれています。(駿府公園にて)徳川家康は、三河国に岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれる。幼少期を織田・今川の人質として過ごしたが、桶狭間の合戦(1560)での今川義元の敗死を機に自立。織田信長と豊臣秀吉の天下統一に協力し、三河・駿河・遠江・甲斐・信濃の5カ国の主から、小田原攻めの後は、関東に移る。関ヶ原の合戦(1600)に勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に叙せられ、本拠地の江戸に幕府を開いた。将軍職を退いた後も、駿府(静岡)で大御所として君臨した。(1542〜1616年 在職 1603〜1605年) |
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徳川家康は、竹千代時代の天文18年(1549)8歳のときから、今川家の人質として12年間、臨済寺の太原雪斉から文武両道を学んだ。後年、家康が天下を治め、徳川300年の基礎をつくった素地は、ここでの幼年時代に培われたといえる。上段が臨済寺、下段が家康(竹千代)「手習之間」である。
<徳川家康の言葉>
ややももすれば己が好みにひかれ、わがよしと思ふ方をよしと見るものなり。人には其長所のあれば、己が心を捨て、ただ人の長所をとれ |
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