|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
私は北九州のある小学校で、こんな歌を習ったことがあった。
ふけゆく秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人なやむ
こいしや古里 なつかし父母
私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者といっしょになったというので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関というところであった。私が生まれたのはその下関である。−故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それゆえ、宿命的に旅人である私は、このこいしや古里の歌を、ずいぶんわびしい気持ちで習ったものであった。(放浪記より)
林芙美子は、明治36年(1903)、山口県下関市で行商人の子として生まれる。行商を営んでいた親の影響で各地を転々とした。尾道に越してきた一家は海岸近くの「うず潮小路」に部屋を借りる。大正5年6月、尾道市立第二尋常小学校(現在の土堂小学校)5年生に転入してから女学校卒業(現在の尾道東高等学校)までの多感な少女時代を尾道で過ごす。卒業後上京、事務員・女工・女給などの職を転々としながら詩を書きはじめる。職を転々としながら過ごした19歳から23歳頃までの多感な日々を書き綴ったのが、昭和5年(1930)に発刊された『放浪記』で、当時のベストセラーとなった。『浮雲』、『めし』、『浮雲』」などの作品を次々と発表し、『晩菊』で女流文学者賞を受賞した。
上京後も尾道には何度か戻ってきている。尾道は芙美子の心安らぐ土地だったようです。昭和26年6月28日、他界する。47歳であった。墓所は、東京都中野区上高田の万昌院功運寺にある。(当HP「墓地・終焉の地」参照)
「海が見えた。海が見える。五年振りにみる尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える」(放浪記)
「私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。…少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。」(放浪記)
|
|