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<賀茂真淵・誕生地>
江戸時代中期の国学者・歌人の賀茂真淵は元禄10年(1697)、遠江国敷智郡、現在の浜松市中区東伊場の神官の家に生まれた。荷田春満(かだのあずままろ)に師事し、江戸に出た。
真淵は本居宣長をはじめ、橘千蔭(たちばなのちかげ)、村田春海(むらたはるみ)、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤宇万伎(かとううまき)、内山真龍など、多くの優秀な門人を育てた。 |
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<賀茂真淵>
賀茂真淵は、元禄10年(1697)に、賀茂神社神官の三男として生まれた。教養ある両親のもとで幼くから和歌に親しみ、11歳からは諏訪神社や五社神社の神職等について手習いをはじめ、国学への目を開いた。
31歳頃上京し、荷田春満に師事し、さらに江戸に出て著述と門弟の養成に努めた。
真淵は『万葉集』を研究し国学を樹立した。当時漢学が主体の中で『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古典を研究し、古代の思想・文化を明らかにし、生き方のより所を求めようとした。特に、「ことば」を信じ、「ことば」によって「こころ」をとらえようとした。
真淵68歳で江戸浜町の居を移し、「縣居」(あがたい)と号した。『あがたとはゐなかの心也』とし、心は遠く故郷浜松の田舎に馳せ、簡朴な古代生活を現実として営もうとした。
真淵は、87部309巻の著述、1000首ほどの和歌を残し、当時卓越した学者・文化人であったことでしょう。そんな真淵の学徳を慕う門人は、340名余の多きを数え、『古事記伝』の本居宣長、エレキテルの平賀源内、『群書類従』の盲目の大学者塙保己一(はなわほきいち)等によっても真淵の学績は伝承された。
身近なところで、私たちが現在使っているアイウエオ五十音図に真淵の研究が生かされている。真淵の学績は私たちに無縁ではない。
合併前の浜松市歌は、歌詞の一番で真淵を讃え「わが浜松の市のさかえ」と詠っていた。 |
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旧(合併前)浜松市歌 |
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大御田のみなわもひちもかきたれて
とるや早苗はわか君のため
田んぼのみなわ(水泡)もひじ(どろ)もかきたれて(泥にまみれて)とるや早苗(さなえを植える)はわが君のため
真淵51歳の作品で、「わが君のため」の意味は、天皇、徳川将軍、お百姓さん、愛しい人など諸説ある。(昔は濁点音を入れないのでひじはひち、わがはわかとなる。)
賀茂真淵は、「万葉集」等の古典研究に生涯を捧げ、万葉派歌人の先駆者として千首余り和歌を遺し、門弟も本居宣長など三百人をこえ、女性の弟子も多数いたとのことです。 |
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<賀茂真淵・県居(あがたい)の跡> |
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古歌をとおして、我が国の古典学の基礎を築いた賀茂真淵(1697〜1769)は、現在の浜松市の出身で、はじめ京に出て荷田春満に入門し、元文2年(1737)江戸に下り、八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武(徳川三卿の一人)に迎えられ、和学を講じた。
隠居後、浜町山伏井戸の東方に住み、県居の翁と称し、「万葉考」「歌意考」「国意考」「祝詞考」等を著した。また歌会なども多く開き、その作品は今に伝えられている。
あがた居の 茅生の露原 かきわけて 月見に来つる 都人かも |
その旧跡は、この地点の北東約百mの辺りである。中央区日本橋浜町1-4(付近) |