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元町公園の一角にある函館四天王像。近くには箱根奉行所跡の記念碑もある。眼下に広がる函館港の景観に目を奪われる。四天王も同じ思いだろう。
<函館四天王像>市民精神の源流
明治の函館は本州の都市のように、旧藩の遺産も恩恵もなく従ってその束縛もなく市民は自主的に市民精神を養い、経済の発展を計り進んだ都市造りをした。造船所、器機製造所等の重要産業を興すと共に日刊新聞の刊行、学校、病院、水道、公園をはじめ、恵まれない人々のために教育、医療施設にいたるまで力を尽くした。
明治、大正には東京の文化は素通りして北海道へ渡ったと言われたが、その北海道とは函館のことである。その繁栄は、平田文右衛門をはじめ四天王と言われた人々の合議によって昔の泉州の堺港とくらべて明治の自由都市の函館と称する人もある。人口は終戦前まで常に全国第十位前後であった。
四天王とは次の四人である。像に向って左より
<今井市右衛門>(天保7ー明治20年、1836ー1887)
石川県能登の生まれ、若くして当地に来たり西洋雑貨の店舗を開く、また、北海道最初の新聞社の北溟社を設立した。医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等多くの私財を投じて少しも惜しまなかった。
<平田文右衛門>(嘉永2ー明治34年、1849ー1901)
函館生まれ、呉服太物商。函館繁栄のため造船所、器機製作所、学校、病院、新聞社の設立等四天王の功績は多くこの人が主唱し計画、実行に誤りがなかった。区の財産造成にも大功があった。没後、区会の決議により肖像を議事堂に高く揚げてその徳を顕彰した。
<渡邉熊四郎>(天保11ー明治40年、1840ー1907)
大分県竹田の生まれ、明治2年金森洋物店を開きて世界各国の商品を普及、書店を開きて文化に尽くし海運業を計りて貿易に貢献、また巨費を投じて函館病院を再建、2代3代にわたり私財にて育英的な人材を養成したボーニ森屋デパート金森商船は遺業の一部である。
<平塚時蔵>(天保7ー大正11年、1826ー1922年)
青森県田名部の生まれ、函館の平塚家の養子、呉服太物、西洋雑貨の販売を業とした四天王の一人として公共事業に尽くし、私財を投じては慈善事業に貢献、四天王のうち最も長命、後輩の指導に尽くした。
この四人は当時の区長常野正義と共に明治14年制定の監綬褒章第三号から第七号まで受けた。 |
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