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<亀井勝一郎・生誕の地>
亀井勝一郎は、明治40年(1907)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年(1937)「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年(1965)日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年(1966)11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。
なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し瞑目す」と刻まれた文学碑がある。
<亀井勝一郎・文学碑>
亀井勝一郎は、思想家、文芸評論家として著名であり、古代日本の美と心を現代的に再発見し、さらにそれを祖述発展せしめた業績は大きく、昭和12年の「人間教育」、昭和18年の「大和古寺風物史」等は、不朽の名著として、ながく人々の心を豊かにし、そして導いて行くであろう。 晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、不幸にも逝去のため未完に終わったのは残念である。
亀井勝一郎は若い時、急進的な思想に走ったためか、生来のはにかみやのためか、函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を使い、いかなる美食よりも故郷函館の食物を好んだという身近な事実をみても、その思想の根底には、函館の風土と人心が掛け替えのない土壌ととなっていたことは、疑いのない事実であろう。
亀井勝一郎は明治40年(1907年)2月6日函館元町に喜一郎の長男として生まれた。父は当時、函館貯蓄銀行支配人であった。弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、評論家、思想家として活躍、昭和40年11月日本芸術院会員となり、翌41年11月14日病により永眠した。
この碑は昭和44年10月14日、心ある人々によって建てられたもので、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し暝日す」が刻まれている。 石は日高産の名石。なお、元町には、武者小路実篤筆による「生誕の地碑」がある。 |
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