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ここは吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地である。この付近は「団子岩」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な所である。
杉家の建物は、元は萩藩士八谷聴雨の山荘であり「樹々亭」と称していた。松陰は、天保元年(1830)8月4日、杉百合之助の二男としてこの地に生まれ、19歳までの人間としての形成期を過ごした。
両親や兄弟とともに農耕に従事し、その合間には父から漢籍の素読などを受けた、思い出深い場所である。松陰自身の書き残した書の中にも、「樹々亭」「山屋敷」「山宅」などの表現が見られる。
旧宅の間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、それに別棟の納戸と厩という、非常に狭く、簡素な造りであった。
嘉永6年(1853)に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていたが、大正11年(1922)に椿東村青年会会長信国顕治が、青年会員に呼びかけて整備した。当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によってこの時復元したものである。
整備にあわせて山県有朋が「吉田松陰先生誕生之地」の石碑の題字を揮毫している。肩書きを門下生のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れている。なお、山県有朋は整備完了前に死去したため、これが絶筆となった。
敷地内には「吉田松陰先生誕生之地」石碑や松陰産湯の井戸、松陰と門弟の金子重輔の銅像などがある。 |
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ここから市内を一望すると、この小さな城下町の中から生まれた維新の活力を彷彿とさせてくれる。萩は関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏が、この三角州指月山のふもとに城と町を築いたところで、江戸時代の典型的な城下町の姿を保ち、細工町、侍屋敷、商人町、寺町など、その構造を知るには最も都合のよい町であるといわれている。 |
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