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幕末の志士。この地に出生。明倫館に入り、のち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。
長井雅楽(ながいうた)の航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請に奔走、英国公使館の焼打に下関の外国船砲撃に参加した。元治元年(1864)蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刀した。享年25。
<坂本龍馬と久坂玄瑞>
文久2年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤王党首領武市瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪れた。
龍馬は萩に9日間滞在する。その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。そして薩長同盟、大政奉還など歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。
一体、萩で何があったというのか。
幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立も危ぶまれていた。久坂玄瑞は長州藩を訪れた龍馬に、師・吉田松陰の草莽崛起論(そうもうくっきろん)を説く。
「ついに諸侯(諸大名)恃(たの)むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外はとても策これ無し……失敬ながら尊藩(土佐)も弊藩(長州)滅亡しても大義なれば苦しからず」。
日本を変革するのは草の根に隠れている自分たちで、そのためなら藩は滅んでも構わぬという凄まじい決意であった。そして龍馬はこの直後、土佐を脱藩してしまった。萩には今も、人々の魂を奮い立たせる何かがある。
<久坂義助の霊にたむけて> 實美
九重のみはしのちりをはらはむと
こゝろも身をもうちくたきたる |
公爵 三條公輝書 |
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