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<木戸孝允・誕生地>
木戸孝允は、藩医和田昌景の長男として天保4年(1833)6月26日に生まれた。7歳のとき、桂九郎兵衛孝古の養子となる。初めは桂小五郎と称していた。17歳のとき明倫館で吉田松陰に学び、嘉永5年(1852)、20歳のとき江戸に出る。
旧宅は萩城下のほぼ中心の武家屋敷にあり、木造2階建てで、孝允が誕生した部屋や庭園などは当時の姿をよく残している。
木戸孝允は、西郷隆盛、大久保利通と並んで維新の三傑と呼ばれる。長州藩での尊皇攘夷運動の代表者であり、薩長同盟では長州の代表を務めた。明治新政府においては、太政官の徴士、総裁局顧問、外国事務掛などに就任。明治4年、岩倉使節団の一員(副使)として海外を回る。西南戦争の最中に行く末を心配しながら病死した。45歳。 |
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<木戸孝允 幼年時代の(7・8歳頃)の手習い>
『 今日 』
桂家の養子になり以前の「和田小五郎」の時に書いたもので。朱書きで『以ってのほかよろし』と褒め言葉が書かれている。これは上出来なものしか書かれなかった言葉で、この言葉があると、城下では大評判になった。
<木戸孝允 少年時代の(11歳頃)の手習い>
筆致啓達候
貴公様今度御
加禄御頂戴加之
御懇之御口足 |
養子にいったので名前が、「桂小五郎」に変わっている。朱書きで「天晴見事見事」という言葉が書かれているが、これも特別上出来なものに書かれる最上級の褒め言葉であり名筆家としての片鱗が伺える貴重な資料です。 |
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明治3年(1870)に毛利元徳公(前列右)と撮った集合写真。木戸孝允は後列の中央。 |