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山鹿素行は、江戸時代前期の儒学者・軍学者(1622〜1685)。元和8年(1622)、会津(現在の福島県)に生まれる。早くから秀才といわれ幅広い学問を修めるとともに、25歳の時に各大名・旗本に兵法儒学を教授するほどになり、一介の浪人でありながら、若くして門弟3000人をかかえるほどだった。
承応元年(1652)、31歳の時に赤穂藩主浅野長直に禄高1000石で仕えることになる。素行は、赤穂藩に仕えた万治3年(1660)まで8年間、「修教要録」・「治教要録」・「武教要録」などの主要な本を著し、また半年の短い赤穂滞在中には、赤穂城二之丸虎口の縄張りの一部の変更など、軍学者としての手腕を発揮している。
その後、民間学者となり寛文6年(1666)、江戸にて「聖教要録」を出版するも朱子学批判の罪で赤穂の地に配流され、赤穂城二之丸内の大石頼母助屋敷の一角に預けられることになる。
延宝3年(1675)の赦免になるまでの9年間、赤穂で読書と著述に明け暮れる謫居(たっきょ)生活を送った。この時期に「中朝事実」や「武家事記」をはじめ多くの著書を残したほか、自叙伝風の遺言状「配所残筆」を記している。
配流中は、藩主や重臣のもてなしを受けることも多く、その思想精神(山鹿流兵法)は、門弟であった大石良雄をはじめ多くの赤穂義士たちに影響を与えたと言われている。 |
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現在、素行が謫居生活を送った赤穂城跡二之丸付近には、銅像が建てられているほか、命日の9月26日に開催される山鹿素行祭や赤穂山鹿素行研究会による研究寄稿誌の発行など、素行の思想は現代に至るまで続いている。(大正14年(1925)、謫居跡に建立された素行像は、平成10年(1998)に赤穂城跡公園整備のため現在地に移転されている) |
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