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元禄14年3月14日の夜、瀬左衛門は原惣右衛門とともに早駕篭に乗り、主君浅野内匠頭長矩公切腹の報を、国許赤穂に伝えるため江戸を立った。主君刃傷の報はすでに同日夕方、早水藤左衛門、萱野三平による第一の急使が携え赤穂に向かっている。
3月19日午後8時頃、主君切腹の報は、瀬左衛門と原惣右衛門によって赤穂城にもたらされた。
瀬左衛門は、大石内蔵助とは遠い親戚で、祖父が内蔵助の曾祖父の弟にあたり、剣を潮田又之丞とともに、内蔵助の剣の師でもあり、東軍流の剣豪として知られていた奥村無我に学んだという。
急使として赤穂に到着したのち、瀬左衛門はそのまま赤穂に留まって内蔵助に従ったが、城明け渡し後は京都に移り住み、元禄15年10月初旬には討ち入り決行のため、大石主税、小野寺十内、間瀬久太夫らとともに、江戸の入り、吉良方の偵察にあたった。
討ち入りのときは、裏門隊に属し、細川家にお預けののち、吉田孫四郎の介錯で切腹した。
馬廻、150石、裏門隊、行年27歳。 |
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