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吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白により築城された。以来東三河の要衝として、今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし、輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、後に入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に移った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ、本丸を中心に、二の丸、三の丸を前面と側面に配した半輪郭式の「後ろ堅固の城」といわれるものである。
明治6年(1873)、失火により多くの建物が焼失したが、太平洋戦争後に三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には昭和29年(1954)に隅櫓が模擬再建された。 |
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<石垣と刻印>
大規模に拡張された吉田城も、石垣のあるのは本丸とその他数ヶ所だけで他は土塁であった。本丸石垣の壁面は、本丸石垣の壁面は、内側・外側合わせると約50面になる。
野面積み(自然石を砕いて、そのまま積んでいく)である鉄櫓(復興)下北面と西面の石垣は、後世の手直しの跡のない池田輝政時代の石垣だといわれている。さらに、石垣の石のうち花崗岩に色々な印が彫られているが、これがいわゆる「石垣刻印」と呼ばれているものである。刻印は、大阪城や名古屋城などにもみられ、築城工事を分担した大名と家臣などの印であるといわれ、現在まで50以上確認されている。
因みに、吉田城の石垣に使われている花崗岩は名古屋城創設用の石材を使用したものである。
<城の石垣刻印>
室町時代から江戸初期ごろに築城された城の石垣には、刻印(家紋・名前・文字・記号等)が施してある事がある。刻印は城の築城或いは石垣の採石時に何らかの意思表示のため、彫られたものと考えられている。刻印を印したのは築城に携わった武将か配下の武士または石工、或いは採石場の石職人や石を運搬手配した商人等、多くの可能性がある。ここは自分達の仕事であると誇示すると共に所有を示し、盗難を予防するためとも言われている。
徳川幕府は諸大名(主に西国)に、幕府にとって重要な城の普請を命じた。大名は自分達が築城を分担する区域を刻印によって示し、幕府に貢献度をアピールすると共に、後世に残したかったのではとも考えられている。
吉田城には、徳川三代将軍家光までが江戸から京都への往来の途中に宿泊した本丸御殿があった。(その後1707年の宝永の地震で倒壊するまで存在)。そうした幕府にとっても重要な城だったので、当時の城主松平忠利は武家諸法度の発令後にも関わらず譲受・転用した石材を用いて城の重要な部分の石垣を完成させる事ができたと言われている。
刻印の中で家紋や名前やと地名が彫られているものは、誰が石積みに関わったかはぼ判断できるが、未だ不明のものや特定できないものも多くある。 |
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