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最上藩57万石の居城である山形城。元々は斯波兼頼が築城した。斯波兼頼は、この地を拠点として出羽地方を制圧し、その子孫が土着して地名の最上氏を名乗った。11代目の最上義光は、戦国大名として武略、知略にすぐれ今の山形県のほとんどを手中に収めた。この義光の時代に山形城とその城下町は整備されたのである。別名を霞ケ城という。城が霞で隠れることから霞ヶ城の異名がついた。義光死後の最上家はお家騒動がおき、義光の孫、義俊の代には最上家は改易となる。
その後、山形城は鳥居、保科などの大名が入れ替わって入城し、最後は水野家5万石で明治を迎えた。現在、この名を取って城跡は「霞城(かじょう)公園」という。城のほとんどが失われ、霞城公園に二の丸城址が残されている。 |
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