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宇和島城は慶長元〜6年(1596〜1601)、築城の名手と呼ばれた藤堂高虎によって戦国時代の山城から近世の海城へと生まれ変わった。
当時は大半が海に面する地形を巧みに生かした縄張だった。石垣や天守、櫓は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されたが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲している。堀は全て埋められ、三の丸をはじめ総郭部分約28万uは失われているが、本丸・二の丸等の郭を含む約10万uの城山は、国史跡(昭和12年)に、現存12天守の1つとなる天守は国重要文化財(昭和9年)、そして南側登城口城門の上り立ち門は市指定文化財(昭和38年)に指定されている。また、城山には約430種の草木が生い茂り、苔むした石垣群と織り成す幽の美の世界は、一見の価値がある。 |
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宇和島城はリアス式海岸最深部の湾頭丘陵部に築かれた海域で、梯郭式平山城の形態となる。慶長年間に藤堂高虎が近世城郭化を計り、寛文年間(1664〜1671)には宇和島伊達家2代藩主宗利が大改修を施した。
3層3階層塔型で総塗籠式となる天守は、本丸中央に独立して建ち、各階に装飾としての破風や長押が見られることなどから、太平の世を象徴する華麗且つ格式高い天守として評されている。
堀など外郭は市街化されてしまったが、城山内では郭の遺存状況が良く、苔むした石垣が約430種の草木からなる照葉の森と相まって幽玄の世界を醸し出している。 |
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城内の様子。障子がある。戦いを想定した城なら、火災の原因にもなり得る障子はないが、ここにはある。戦いを想定していない、太平の世の城であることを実感する。 |
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城内の階段。太平の世の城であっても階段は急である。 |
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<天守からの眺望>
天守から宇和島の町を眺める。目の前に海を見ると海城としての宇和島城の印象を強くする。 |
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<二之丸跡>
天守が建つ本丸の最終防衛施設として「その目前に置かれ、眼下の雷門周辺に侵攻した敵を攻撃するために築かれていた曲輪で帯曲輪と連結している。 |
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<三之丸跡>
内堀をめぐらし、周囲を石垣と土塁で囲んだ堅固な郭です。慶長6年(1601)から延宝4年(1676)まで、御殿が置かれた藩の中枢の場所だった。
御殿移築後は側室の休憩所などに使われるが、文久3年(1863)には御殿を取壊し調練所となる。明治以後は市街化が進み、当時の面影を残すものは、目の前の石垣のみとなっている。
○現存石垣:長さ約50m、高さ約4m |
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<宇和島城の井戸>
この井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられたいたと推量せられる。
井戸の直径2.4m、周囲8.5m、深さ約11mである。ここは城山の北側の谷の中腹、三之丸からの登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。 |
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<宇和島伊達家の誕生>
宇和島伊達家は、伊達秀宗(天正19年(1591)〜明暦4年(1558))を藩祖とする大名家です。秀宗は、伊達政宗と側室・新造の方との間に長男として誕生(幼名:兵五郎)、岩出山(現・大崎市)で家督後継者として育てられるが、わずか4歳で天下人・豊臣秀吉へ人質として差し出される。しかし、兵五郎は秀頼(幼名:拾丸)の遊び相手として大切に育てられ、6歳元服の折には、秀吉の一字を拝領して、「秀宗」と名乗ることとなる。
秀吉没後、政宗は徳川に組したため、秀宗は関ヶ原合戦直前に監禁されるが、徳川方の勝利で秀宗は危うく難を逃れる。その後の慶長7年(1602)9月、政宗は12歳の秀宗を家康に拝謁させ、今度は徳川家の人質となる。
慶長15年(1610)には、政宗・正室愛姫の子、虎菊丸が徳川秀忠の一字を拝領、忠宗と名乗り、仙台伊達家の後継者となることが決まってしまう。
慶長19年(1614)11月、家康が豊臣家を滅ぼすために大坂冬の陣を起こすと、政宗・秀宗父子は、1万人の兵を率いて徳川方に参戦、政宗の幕閣へ働きかけもあり。冬の陣の功績として、当時幕府直轄だった宇和郡10万石が秀宗に与えられる。
秀忠は伊達秀宗を国持大名格とし、慶長20年(1615)3月18日、秀宗25歳のとき、「五十七騎」とともに、板島丸串城(現・宇和島城)に入場、これをもって宇和島伊達家が誕生する。
将軍家から10万石を与えられたため、宇和島伊達家は仙台伊達家の分家ではなく、総家と支家という血縁のみのつながりで、明治を迎えるまで9代に渡って宇和島を治めた。 |
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<天守>
藤堂高虎が創建した望楼型天守を、宇和島伊達家2代藩主・宗利が、寛文年間(1661〜1673)の城郭全体の大改修にあわせて、当時の最新式の層塔型新造したものが、現在の天守です。
各階の装飾性の高い破風や懸魚(げぎょ)、いずれの面も左右対称となるように配置された武者窓、またその上下に廻されている長押(なげし)などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっている。
万延元年(1860)、昭和35年(1960)に大修理を受けているが、現存する12の天守の一つとして重要文化財に指定され、往時とと変わらない姿を伝えている。 |