|
|
|
|
|
|
光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
堀や城門、城館など城内の構造については記録が無く、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532〜55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。
天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊される。
現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転してきたものである。
なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。 |
|
|
|
|
|
<鐘楼堂>
光照寺は慶長8年(1603)、浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保2年(1645)ここ牛込城跡に移転した。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。
鐘楼堂は明治元年(1868)神仏分離令に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられている。
その後、60年の歳月を経て、昭和12年(1937)に復興を見たが、昭和20年(1945)第2次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失した。
梵鐘(富樫むら殿寄進>は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていたが、この度の鐘楼堂の新築により復元した。 |
|