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鶴が翼を広げた形をしていることから鹿児島城は別名鶴丸城と呼ばれていた。
慶長6年(1601)、関ヶ原合戦の後、島津家18代家久が上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘の「ここは海に近すぎて危ない」という反対を押し切って着工する。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのです。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、慶長11年(1606)城の前の橋が完成したとされている。
城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりだった。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていた。
城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5,000人余りの町人が集められたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。
維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、明治6年(1873)炎上。残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋だけとなった。
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<県指定史跡 鶴丸城跡>
鶴丸城は鹿児島城ともいい、17世紀初頭に島津氏18代家久(初代藩主)が築いた館造りの城で、明治初年まで島津氏の居城だった。
現在地には、大手門にあたる御楼門があったが、明治6年(1873)12月に城とともに焼失した。
その後、この城跡には第七高等学校造士館、鹿児島大学医学部が置かれたが、昭和58年(1983)10月に黎明館(鹿児島県歴史資料センター)が開館した。 |
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