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<東条城の歴史>
鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。
以後、14代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。
南北朝時代、応仁の乱(1467〜)では、10代義藤は山名宗全に味方して、細川方の西条(西尾)吉良と骨肉相争う悲劇を味わった。
12代持広は、松平清康の妹を娶(めと)り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり松平一門の危機を救った。
家康は、桶狭間合戦以後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4年(1561)東条城を攻め、14代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。しかし、天下を掌握した家康は、13代義安の子義定を旗本に取り立て吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。
落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って東条松平家が成立した。家忠の伯父松平忠次はこれを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり。松平姓を与えられて周防守康親と名乗った。天正9年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。康親は天正11年に没したが、子孫は多く幕府の要職についた。忠吉は関ヶ原合戦後尾張清洲城主となるが、慶長12年(1607)に没し、後嗣なく東条松平家は断絶した。
また、ここには高名な文人・武人が多く訪れている。室町時代歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宋長はここで連歌の会を催した。武人では、信長・家康も鷹狩りにことよせて訪れている。
東条城は、天正18年(1590)に家康が関東に移った後廃城となった。それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。 |
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<虎口跡(大手門跡>
城の出入り口のことを虎口(こぐち)という。むかし城門があったところ。この度の城門は、創建当初(鎌倉時代)に近いものにする努力をした。虎口は固く守るだけではなく、攻め出しやすくするため、特に工夫された。この虎口は土塁で挟むように造られている。
<物見櫓>
東条城の物見櫓が、どの位置にあったか、またどのような構造であったかは、今の時点でははっきりしない。表門と同様、鎌倉時代の絵巻物(一遍上人聖絵)などを参考にして復元した。今後の調査によって、位置等も確認できるかも知れません。 |
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<本丸跡>
この区域一帯が本丸跡です。ここは城防衛の最後の拠点となった。周囲は堅固な土塁や柵で取り囲まれていた。現在の復元土塁の数倍近いものであったと思われる。また、いろいろな建物もあったことでしょう。 |
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<三の丸跡>
この区域一帯が三の丸跡です。中世の城には、後世に見るような堅固な石垣や、華麗な天守閣など無いのが普通でした。この東条城は、中世の姿がよく保存された貴重な城跡です。重臣の役宅などが、この辺りにあったかもしれません。
<隅櫓跡>
古図(広島県中央図書館蔵)に、この本丸東北隅に口の形で特記された箇所がある。現在も土を盛り上げた形状がわずかに残っている。ここに隅櫓があったと思われる。 |
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<虎口跡(搦手門跡)>(左画像)
表門(大手門)に対して、裏門のことを搦手門と呼ぶ。古図と現在の地形から、この辺りは搦手門があったと思われる。今は門に通じる道はなくなっている。 |
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東条城は中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城です。現在、城は独立丘陵に位置するように見えるが、本来は茶臼山(291m)から伸びる尾根の先端部にあたり、現在の県道は尾根の掘り切り部分を通っている。城の東から南の沼田は藤波畷と呼ばれ、矢崎川と支流の炭焼川が自然の掘の役割を果たしていた。
永禄4年(1561)に東条城は松平元康(家康)軍の攻略を受け落城し、東条城には城代松井忠次(後の松平康親(やすちか))が入城した。天正3年(1575)に松井は牧野城に転封となり。東条城は廃城となった。
主郭を中心に曲輪をめぐらす中世の城の特徴をよく留めている。 |