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<全国屈指の山城遺構>(国史跡)
JR播但線、竹田駅の西方、古城山(標高353.7m)の山頂部が竹田城(別名虎臥城)です。嘉吉年間(1441〜1444)、守護大名の山名持豊(宗全)の有力家臣(国人)のひとり、太田垣の築いた城郭である。その頃の竹田城は砦に近い小さなものであった。その後、文禄年間(1592〜1595)から廃城になった慶長5年(1600)に近い頃、今の様な豪壮な石垣積みの城郭となった。
この石垣は、織田信長の安土城と同じ技術(穴太(あのう)積み)を用いている。山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構成)のみごとさは全国でも指折りの城郭である。竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天守台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、花殿を配し、さらに鳥が双翼を広げたように、その南北の端をそれぞれ南千畳・北千畳とした。城の規模は南北約400m、東西約100mで、今なお当時の偉容をほこっている。
<遺構>
竹田城は嘉吉年間(1441〜43)に、守護大名の山名持豊(宗全)が有力家臣のひとりである太田垣に築かせた城である。そのころの竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。最近の調査では、現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、廃城時(慶長5年、1600)にごく近い時代と考えられている。
竹田城の縄張りは、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が悌郭(ていかく)式に配され、大手口を防御する枡形(ますがた)部に沿う北千畳部と搦手(からめて)口のある南千畳を双翼とし、さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。
また、城郭の周囲には現存の石垣より古い時代の遺構である竪堀(たてほり)も確認され、複合遺構として今後の総合的な調査・保存が必要になっている。規模は南北約400m、東西約100mである。(昭和18年9月8日、国史跡に指定)
<石垣>
竹田城遺構の見せ場は石垣にある。この石垣は構築技法からみて、穴太(あのう)積みを採用している。穴太積みとは、近江国(現滋賀県)坂本を中心に発達した石垣構築法の総称であるが、積み方から言えば野面積み石垣といえよう。野面積みとは、加工をほどこさない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く、一見して粗雑に見えるが水はけがよく、崩れを防ぐ。 竹田城の場合、石垣が築かれてから約400年経つが、一部の復元箇所を除いて当時のままの姿を今日に伝え、石積みのもつ深い味わいはたとえようもない。 |
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城は築城後、山名の家臣太田垣光景が初代城主となったと伝えられ以後太田垣氏は7代にわたりこれを守り継いだ。応仁の乱では2代城主景近が京都へ出陣した際、夜久野へ来襲した細川軍を景近の二男宗近が撃ち破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉は但馬へ攻め入り竹田城を攻略した。天正5年(1577)再び秀吉軍の攻撃をうけ竹田城はついに落城した。このあと秀吉は弟小一郎を城代として城内の整備を命じている。同8年(1580)桑山重晴が城主となり、13年には四国征伐等で戦功のあった赤松広秀を竹田城主として入れた。広秀は、九州討伐、朝鮮の役等に出役したほか、文化人としても儒学者藤原惶窩との親交も厚く、領民には産業を奨めて深く敬慕された。
関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃し果てた。享年39歳、慶長5年10月28日のことである。(竹田城説明板より引用) |
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竹田城跡を訪れた時、「国破山河在」を思い出した。
国破山河在 |
国破れて山河在あり |
城春草木深 |
城春(しろはるにして)草木深(そうもくふかし) |
感時花濺涙 |
時に感じては花にも涙を濺(そそぎ) |
恨別鳥驚心 |
別れを恨(うらんでは)鳥にも心を驚(おどろかす) |
烽火連三月 |
烽火三月(ほうかさんげつに)連なり |
家書抵万金 |
家書万金(かしょばんきんに)抵(あたる) |
白頭掻更短 |
白頭掻(はくとうかけば)更に短かく |
渾欲不勝簪 |
渾(すべて)簪(しんに)勝たえざらんと欲(ほっす) |
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