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高遠城は、三峰川と藤沢川に削られた河岸段丘上の突端に位置している。段丘上から見れば平城のように見えるが、他の三方から見ると川敷から80mもの高い丘の上にある山城の姿をしているため、一般的に平山城と言われている。
高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあって、南北朝の頃よりその支族である高遠氏が一円を治めていた。しかし、ここが諏訪から伊那へ抜ける交通の要衝であり、南信濃から駿河や遠江に進出するための重要な地点であったことから、天文年間(1532〜1555)に武田信玄の侵略にあい、その旗下に属した。高遠を手に入れた信玄は、高遠城の拡張改築を家臣に命じ、天文16年(1547)に「鍬立て」を行っている。この築城に関わったのが山本勘助であると伝えられている。
江戸時代には大規模な改修がなされているため、当初信玄が改修した城の姿は分かっていないが、各曲輪を隔てるためにめぐらされた深い空堀や、城内に残る土塁からは、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿を窺(うかが)い知ることができる。武田氏による高遠支配は35年間続いたが、高遠城が南信濃の拠点として重要視されたため、城主は、諏訪(武田)勝頼や仁科五郎盛信など信玄の近親者が就いている。中でも天正10年(1582)、伊那谷に攻め入った織田軍と戦った仁科五郎盛信の姿は後々まで語り継がれ、盛信の流した血は城内に植えられているコヒガンザクラの赤みにもなぞらえている。
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明治5年(1872)、新政府の手によって城内の建物は民間に払い下げられたが、城跡には、旧藩士らの手によって「桜の馬場」から桜が移植され、明治8年(1875)に公園となった。
公園北口には昭和11年(1936)に高遠出身の池上秀畝・小松伝一郎・広瀬省三郎・矢島一三の四氏が建て、町に寄贈した登録有形文化財「高遠閣」がある。その他公園内には太鼓櫓・当時の空掘や土塁、無字の碑を始めとした数々の碑文等があり古きを偲ぶことができる。桜の時期を過ぎても夏の新緑、秋の紅葉等四季折々楽しむことができる。現在、高遠城址公園となっている。
<タカトウコヒガンザクラ>
タカトウコヒガンザクラは明治8年(1875)頃から植え始め、樹齢130年を超える老木を含め、現在では約1,500本の樹林となっている。その花形はやや小ぶりで赤みを帯びその可憐さと規模の大きさは「天下第一の桜」と称されるほどで県の天然記念物の指定を受け、平成2年(1990)には日本さくらの会の「さくら名所百選」に選ばれている。(伊那市観光協会) |
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